1. 応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)

応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)

15世紀後半の内乱。嘉吉の乱後,将軍の権威は失墜し,守護家におこった相続争いは家臣団の分裂・抗争を軸に激化,守護勢力相互の均衡関係も崩れ,室町幕府体制は動揺した。三管領(かんれい)のうち畠山・斯波(しば)両氏も家督をめぐる内紛でそれぞれ2派に割れ,ひとり勢力を維持した細川勝元と嘉吉の乱の功で強大化した山名持豊(宗全)が幕府の覇権を争う情勢となり,対立する諸勢力は両者のもとに結集し2大勢力が形成された。さらに将軍足利義政の後継をめぐる弟義視(よしみ)と実子義尚(よしひさ)の相続問題が両派の争いに結びついた。両派の武力衝突は1467年(応仁元)1月,畠山義就(よしなり)と同政長の間に始まり,それぞれ自派の守護の軍勢を京都に結集,同5月全面戦争に突入した。戦局は一進一退をくり返したのち膠着状態となり,戦火はむしろ地方へ拡大。乱にあたって東軍(細川方)は幕府を押さえ,西軍(山名方)も義視を擁し,幕府に似た政治機構を備えて対抗,東西二つの幕府の抗争として展開した。この間,在京守護大名の領国では守護代・国人(こくじん)の反乱や土一揆(つちいっき)がおこり,守護の帰国をうながした。73年(文明5)に持豊と勝元が病没すると覇権争いの色彩は薄れ,翌年4月両軍は講和。77年西軍の大内政弘が幕府に帰降するに及んで西幕府は崩壊,諸大名は領国に下り,京都の戦乱はいちおう終息した。乱の直接原因は家督争いや幕府での覇権争いだが,根本的には社会体制の変動にともなう諸矛盾に起因し,乱をきっかけとして諸国では守護代・国人あるいは守護による政治体制の再編成が進められた。乱ののち幕府・守護体制と荘園制は崩壊へむかい,幕府は山城を中心とする政権に転落,守護も多くは下剋上(げこくじょう)で没落し,時代は戦国大名の形成へむかった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

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