清(しん)

Qing 1616~1912 中国の最後の王朝。満洲人が支配し,12代297年続いた。第1代の太祖ヌルハチは,南満洲の建州女直(じょちょく)の出身で,満洲族を統一し,1616年即位して後金(こうきん)国と号した。ついで明軍を破り,瀋陽(しんよう)を都としたが,その子太宗ホンタイジは朝鮮,内モンゴルを従え,36年国号を清と改めた。次に順治帝が即位すると,44年たまたま明が李自成(りじせい)の内乱で滅んだのに乗じて,中国内地に進出し,北京に遷都した。これより清は中国王朝となり,明の残存勢力や三藩(さんぱん)の乱,台湾の鄭氏(ていし)を平定した。当時は康熙(こうき)帝の時代で,その後,雍正(ようせい)帝をへて乾隆(けんりゅう)帝の末年の18世紀末まで100余年間,康熙・乾隆時代と呼ばれる全盛期を現出した。この期間に清の領土は東アジアの大半に及び,内治は充実し,人口は増加し,商工業は繁栄した。学問の奨励とともに大編纂事業が行われ,考証学が発達した。清は満洲人に対しては初めから八旗制度で統制したが,中国支配においては中国の伝統文化を尊重し,明の制度をだいたい継承し,漢人を登用した。しかし文字の獄や禁書が行われ,政治批判を厳禁した。18世紀末になると清は衰え始め,白蓮(びゃくれん)教徒の乱など反乱がしばしば起こり,19世紀半ばに太平天国の乱が発生した。一方その頃から欧米列強の外圧が加わり,アヘン戦争,アロー戦争が起こり,ロシアに黒竜江地方を奪われた。その後,同治中興(どうちちゅうこう)となり洋務運動が起こったが,19世紀末,日清戦争で敗北すると,列強の帝国主義勢力が侵入し,義和団事件が発生し,8カ国の連合軍が北京を占領した。その頃光緒帝,康有為(こうゆうい)らにより行われた変法運動が,西太后(せいたいこう)らの反対で失敗した(戊戌(ぼじゅつ)の政変)が,他方孫文らの革命運動が盛んとなり,1912年宣統帝が退位して清は滅んだ。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

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