足利持氏(あしかがもちうじ)
生没 1398~1439.2.10 4代鎌倉公方(くぼう)。3代満兼の子。従三位左兵衛督。幼名幸王丸。法名長春院楊山道継。1416年(応永23)上杉禅秀の乱で一時鎌倉をのがれたが幕府の援助で鎮圧,以後政治基盤の強化をはかる。23年,勢力増大を恐れた幕府と全面対決の危機を招くが,持氏が将軍足利義持に謝罪の誓書を送り和睦。しかし足利義教(よしのり)が将軍になると関係は再び悪化。38年(永享10)持氏が,幕府と結ぶ関東管領上杉憲実(のりざね)を追討するため出陣すると,幕府は持氏討伐をはかり,永享の乱がはじまった。幕府軍と憲実軍の包囲,さらに三浦時高らの裏切りによって敗れ,武蔵国金沢の称名寺で出家,翌年鎌倉永安寺で自害。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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