会津藩(あいづはん)
陸奥国若松(現,福島県会津若松市)を城地とする家門大藩。近世初頭は蒲生氏,ついで上杉景勝の領地だったが,のち蒲生・加藤両氏の支配をへて,1643年(寛永20)保科正之が出羽国山形から入封。以後9代にわたる(1696年以後は松平姓)。藩領は,陸奥国会津・耶麻・大沼・河沼・安積5郡と,越後国蒲原郡で23万石。正之は家訓十五箇条を制定するなど藩政の確立につとめ,凶作対策の社倉制や,米価安定を目的とした常平法を実施した。天明の飢饉後の藩制改革では農村の復興がはかられるとともに,藩校日新館の建築,「会津家世実紀」の編纂などが行われた。会津蝋は,専売品として著名。詰席は帝鑑間または溜間。9代藩主容保(かたもり)は,京都守護職などを勤め,幕末の幕政を支えた。1864年(元治元)5万石加増。戊辰戦争では,奥羽越列藩同盟の中心として官軍と戦った。戦後,領地は没収され,民政局をへて若松県となる。会津松平家は69年(明治2)同国斗南(となみ)藩として復興。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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