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文永の役(ぶんえいのえき)

1274年(文永11)のモンゴル(元)・高麗(こうらい)軍による日本侵攻。高麗を征服したモンゴル(71年から国号は大元)のフビライは,1268年(文永5)以降6回にわたり,モンゴル・高麗の使者を日本に派遣し服属を要求したが,鎌倉幕府はこれを拒絶。73年,元は南宋を攻め,さらに3年間抗戦した高麗江華島(現,京畿道)守護軍の三別抄(さんべつしょう)を平定し,日本遠征の準備を開始。74年1月,元は高麗に900隻の造船命令を出し,突貫工事で造船を急がせた。都元帥忻都(きんと)・右副元帥洪茶丘(こうさきゅう)がモンゴル人・女真(じょしん)人および金の治下にあった漢人ら軍兵2万人を,金方慶が高麗の助征軍8000人を指揮し,総勢2万8000人の軍兵が10月3日,高麗の合浦(がっぽ)を出発。10月5日対馬に上陸し,地頭代宗資国(そうすけくに)らが戦死。14日壱岐を襲撃し,守護代平景隆らが戦死。20日博多湾西部の今津・百道原(ももちばる)(現,福岡市)に上陸し,激戦を展開。元側の兵器や集団戦法に日本軍は苦戦し,大宰府へ退却。元・高麗軍は博多湾上の船に撤退するが,夜半の暴風雨のため退却。元の遠征が失敗した理由は,混成軍による指揮官間の確執,兵士の士気の低さ,劣悪な造船条件などがあげられる。役後,幕府は戦闘に参加した武士に恩賞を与え,元軍の再来に備えて異国警固番役の制を定めた。博多湾に石築地(いしついじ)の防塁を築造し,異国征伐も計画。一方フビライは再度日本を侵攻し,弘安の役となる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

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