藤原良房(ふじわらのよしふさ)
生没 804~872.9.2 平安前期の公卿。藤原冬嗣の次男。母は藤原美都子(大庭(おおば)女王とも)。白河殿・染殿(そめどの)と称される。諡号は忠仁公。嵯峨天皇に才能を認められ,皇女源潔姫(きよひめ)と結婚。833年(天長10)仁明天皇の即位とともに蔵人頭(くろうどのとう)。834年(承和元)参議。翌年,従三位権中納言となる。842年承和の変で藤原愛発(あらち)にかわって大納言につき,妹順子が生んだ道康親王(文徳天皇)を皇太子に立てた。848年(嘉祥元)右大臣。850年文徳天皇が即位すると,女明子(あきらけいこ)の生んだ惟仁親王(清和天皇)を皇太子に立てる。857年(天安元)人臣としてははじめて生前に太政大臣となる。翌年清和の即位と同時に人臣最初の摂政になったともいうが,これは,866年(貞観8)の応天門の変に際して下された,「天下の政を摂行せよ」との勅に由来しており,清和即位時に後世と同じような摂政になったか否かは不明。死後は正一位を贈られ美濃国に封じられるなど,特別な待遇をうけた。後継者の基経は養子(兄長良(ながら)の三男)。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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