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藤原鎌足(ふじわらのかまたり)

生没 614~669.10.16 7世紀中頃の官人。大化の改新の功臣で藤原氏の祖。小徳冠中臣御食子(みけこ)の子。母は大伴咋(くい)の女智仙娘。はじめ中臣鎌子と称する。舒明朝の初め,神祇伯就任を辞退して摂津三島に隠棲。皇極朝になると軽(かる)皇子(孝徳天皇),ついで中大兄(なかのおおえ)皇子に接近し,専横をふるう蘇我氏打倒の謀議をめぐらす。645年(大化元)6月,三韓進調の儀式のときに不意をついて中大兄皇子とともに蘇我入鹿(いるか)を斬り,ついで蝦夷(えみし)邸を包囲して滅ぼした。皇極天皇が退位すると,中大兄即位の時期尚早をとなえて孝徳の即位を促し,改新政府が発足した。鎌足は内臣(うちつおみ)に任じられて皇太子中大兄の補佐を勤め,政策全般にわたって関与した。655年(斉明元)大紫冠を授けられる。663年白村江(はくそんこう)で敗戦し,緊迫する東アジア情勢のもと,中央集権国家建設のため律令諸制度の整備を推進した。後世「近江令」を制定したとされるが,完成は疑問。臨終のとき大織冠(たいしょくかん)と藤原姓を賜る。阿武山(あぶさん)古墳(国史跡,大阪府高槻市・茨木市)が墳墓とされる。大海人(おおあま)皇子(天武天皇)の信用もあつく,女の氷上娘(ひかみのいらつめ)・五百重娘(いおえのいらつめ)は夫人になり,壬申の乱で大海人は,鎌足がいればこのような事態にはならなかったと嘆いたという。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

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