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満州事変(まんしゅうじへん)

1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件から33年5月の塘沽(タンクー)協定までの日本による中国東北部(奉天・吉林・黒竜江)・内蒙古東部への一連の武力侵攻。その結果32年3月1日,関東軍の影響下に満州国が建国された。関東軍は対ソ戦の基地確保と中国による権益回収への予防措置として,関東軍参謀石原莞爾(かんじ)らの主導で武力による満蒙領有計画を実行に移した。柳条湖事件勃発後,中国は国際連盟に提訴し,以後,日本の軍事行動を抑止しようとする国際連盟と,それに挑戦する関東軍が鋭く対立していく。若槻内閣は事変の不拡大方針をとったが,関東軍の軍事行動の積み重ねに,国際連盟やオブザーバー国アメリカは日本政府の軍部統御能力に不信をもった。とくに連盟は,満鉄付属地に対する自衛権行使とは弁明できないとして,張学良軍の根拠地錦州への爆撃(31年10月8日。32年1月3日占領)と,北満侵攻(31年11月19日チチハル占領)を重視した。32年1月7日,アメリカのスチムソンが非合法手段による満州の現状変更は認めないという不承認声明を発表した。調査団派遣を要求する日本の提案をうけてリットン調査団が事件現場と中国・日本を訪問し,同年9月30日に報告書を連盟に提出したが,報告書発表前の9月15日に日本は満州国を承認した。満鉄付属地への早期撤退と中国の満州に対する主権承認を内容とするリットン報告書は,33年2月24日の国際連盟総会で採択され,日本は3月27日に連盟脱退を通告。さらに熱河作戦をすすめて軍事支配領域を拡大,33年塘沽協定によって満州の中国本部からの分離が確定した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

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