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南北朝内乱(なんぼくちょうないらん)

14世紀の30年代から約60年間続いた全国的な内乱。字義通りにとれば,朝廷が吉野の南朝と京都の北朝とに分立していた時期であるが,一般には1331年(元弘元)に始まる元弘の乱から,鎌倉幕府の滅亡,建武新政権の成立・崩壊と楠木正成・名和長年らの戦死をへて両朝分裂に至る時期をも含める。これを内乱の前史とすれば,字義通りの内乱は3期にわかれる。〔第1期〕36年(建武3・延元元)足利尊氏が京都に光明天皇を擁立,後醍醐天皇が吉野へ潜伏した両朝分立の時点から,四条畷(しじょうなわて)の戦で楠木正行(まさつら)が敗死し,吉野の行宮(あんぐう)が幕府軍の襲撃をうけた48年(貞和4・正平3)まで。南朝方が組織的軍事力を擁し,独力で北朝・足利方に対抗できた時期である。この間,1338年(暦応元・延元3)には北畠顕家が和泉国石津に,新田義貞が越前国藤島にそれぞれ戦死し,尊氏が征夷大将軍に就任。翌39年には後醍醐天皇が吉野で没し,43年(康永2・興国4)には北畠親房の拠った常陸の関・大宝両城が陥落して,南朝方の組織的軍事力はほぼ壊滅。〔第2期〕幕府内の権力闘争が表面化して観応の擾乱(じょうらん)が勃発,足利直義(ただよし)の養子直冬や南朝方の征西将軍懐良(かねよし)親王が勢力をもって,対立関係が複雑にからみあった時期で,2代将軍義詮(よしあきら)の没した67年(貞治6・正平22)頃まで。幕府の内紛に乗じた南朝方が4度京都奪還に成功し,三種の神器を奪取するなどしたが,京都奪還はいずれも長続きせず,やがて旧直義党や直冬党も幕府に帰参して,再び南朝方は低調となった。〔第3期〕3代将軍義満の治世。幕府権力が確立し,南朝方の抵抗も散発的なものに終始した。90年(明徳元・元中7)の美濃国土岐氏の乱,翌年の明徳の乱をへて将軍権力を著しく強化した義満は,92年閏10月,南北両朝の合一を実現。ここに約60年にわたる内乱は終結。しかし,講和にあたって決められた,両朝合一は譲位の形式,以後の皇位は北朝持明院統と南朝大覚寺統との両統交代,諸国国衙領は大覚寺統の管領,という3条件は履行されず,以後数十年にわたって後南朝(ごなんちょう)の散発的な蜂起が続いた。この内乱は,室町幕府・守護体制の成立,天皇の政治的実権の喪失,荘園公領制の崩壊による貴族・寺社の没落をもたらしたほか,社会・経済・文化の広い面にわたって日本史上の大きな画期となった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

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