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日中戦争(にっちゅうせんそう)

1937年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件に端を発し,45年まで8年間続いた日本と中国の全面戦争。関東軍にはかねてから満州(中国東北部)に隣接した中国北部を親日独立政権支配下にくみこむ意図があった。長城以南進出の地歩を築いた塘沽(タンクー)協定,北支自治工作につながる梅津・何応欽(かおうきん)協定などはその現れである。国民政府が失地満州の回復と華北の中央化をはかると,関東軍・天津軍は冀東(きとう)防共自治委員会を設置し,軍事力を背景に権益保持をはかった。こうしたなかで,天津軍豊台(ほうだい)分遣隊と宋哲元率いる第29軍の一部とが盧溝橋で衝突した。7月11日,日本政府は事件不拡大・局地解決の方針を決定し,満州・朝鮮・内地から派兵できる態勢を整えた。この決定は政府内の不拡大論と拡大論の対立を反映したものであった。同日,政府は事件を北支事変と呼称する旨を発表し,7月27日には内地3個師団の動員実施を決定して,ここに日中両軍の衝突は全面戦争へと発展した。戦線の上海への拡大に応じて,9月2日支那事変と改称。中国は中ソ不可侵条約の締結,中国共産党軍の八路軍編入などで全面抗戦の態勢を整え,日本も,内閣参議制・企画院・大本営などの諸機構を整備した。しかし,12月12日のパネー号・レディバード号両事件は英米の疑惑をまねき,翌日の南京入城の際の南京虐殺事件では強い国際的非難を浴びた。首都陥落後も国民政府の抗戦姿勢は衰えず,ドイツを介したトラウトマン和平工作も失敗したため,日本は38年1月16日「国民政府を対手とせず」と声明し,以降は占領諸地域に傀儡(かいらい)政権を樹立する方針に転換した。38年中には南北作戦連結のための徐州作戦,国民政府の拠点攻略のための武漢作戦,補給路遮断のための広東作戦などが展開されたが,39年からは持久態勢に移行。日独伊三国同盟と南進は太平洋戦争に至る重大な要因であるが,日米交渉での最大の争点は中国からの撤兵問題であった。撤兵に同意しない軍部の反対で交渉は決裂し,太平洋戦争に突入した。中国全土を戦禍にまきこんだ戦争は,45年8月15日のポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏,9月2日の降伏文書署名によって終結した。支那事変の名称は戦後日華事変と改められたが,のち日中戦争の名称が定着してきた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

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