宋(そう)

Song ・〔南朝〕420~479 劉宋(りゅうそう)ともいう。魏晋南北朝時代の南朝の王朝。東晋の軍人劉裕(りゅうゆう)(武帝)は,東晋の末簒奪を企てた桓玄(かんげん)を殺して安帝を復位させ,北伐を敢行して後燕,後秦を滅ぼし,恭帝の禅譲を受けて即位した。子の第3代文帝の30年の治世は内政が整い元嘉(げんか)の治といわれたが,北魏との交戦には失敗が多かった。やがて皇族・武将らの反乱が続き,武将の蕭道成(しょうどうせい)が実権を握って,順帝の禅譲で斉を建て,宋は8代で滅んだ。・960~1279 太祖趙匡胤(ちょうきょういん)が建国してから,帝_(へい)が元の世祖(クビライ)に滅ぼされるまで約3世紀続いた王朝。中国史上の重要な転換期=唐末五代に続き,分裂割拠と武人支配を収拾して統一する一方,新興の地主,自作農,都市庶民の富を背景とし,その有力者,形勢戸(けいせいこ),官戸を科挙制を通じて官僚層に吸収して建国した。そこで対内的には軍事,政治,経済の中央集権を徹底し,文治主義の君主独裁制を樹立した。対外的には_淵(せんえん)の盟以後,遼,西夏,金,モンゴル帝国に対し守勢に立ち,歴代の統一王朝のうち最も狭い領域を保った。宋の国家体制は仁宗ないし神宗(しんそう)のときに頂点に達し,文運の隆盛,新文化の誕生をみる。しかし文治主義に起因する弱兵や,社会進化に伴う不平等が軍事・財政危機をもたらした。神宗が王安石を登用して新法改革を断行,財政,経済,軍事警察,科挙,学校改革を企てるが,旧法党の反対で徹底しなかった。北宋末は政局不安定が続き,遼を滅ぼした金の侵入を受け,1127年北宋は滅亡する(靖康(せいこう)の変)。秦嶺(しんれい)‐淮水(わいすい)線で金の南侵を支えた南宋では,人口移住による江南開発で経済力は充実するが,対外的には金,モンゴルの勢力に終始圧倒される。こうした対外不振の反面,宋代には農業,手工業の生産が著しく発達し,その結果外国・国内貿易が栄え,大小の都市が興り,消費階層の官僚,庶民を中心に新文化が形成された。宋文化の特色は,唐の貴族的・国際的に対して,国粋的・庶民的・内省的である。仏教を消化吸収した新儒学(宋学)をはじめ,歴史叙述の盛行,古文復興運動,民間文芸(詞,雑劇,小説)の発達,絵画の二大流派(北画,南画)の形成,青磁・白磁ほか工芸品の高度な発達がみられた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

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