隋(ずい)

Sui 581~618 南北朝に分裂していた中国を統一した王朝。北周の功臣楊忠(ようちゅう)が隋国公に封じられ,子の楊堅(ようけん)(文帝)は娘を皇后に入れ,その子の静帝が即位すると実権を握り,反対者を鎮圧して隋王となり,禅譲の形式で国を建て,旧長安の傍に大興城を築いて都とした。589年陳を併せて中国を統一し,科挙をはじめ,郷官(きょうかん)(豪族を地方官吏に任ずる制)を廃するなど,帝権の強化を図った。文帝の次子晋王楊広(煬帝(ようだい))は,皇太子勇ほか兄弟を廃し,父を殺して即位し,大運河を開き,吐谷渾(とよくこん),林邑(りんゆう),流求(台湾)などを討った。しかし3度の高句麗遠征に失敗し,農民・豪族の反乱を招き,江都(揚州)で殺された。これよりさき唐国公李淵(りえん)は長安を占領して煬帝の孫,楊侑(ようゆう)を立てたが,煬帝の死を聞いてみずから帝位についた。また,洛陽では同じく孫の楊_(ようとう)が即位したが,王世充(おうせいじゅう)に殺された。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

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