奴隷(どれい)
slave 他者によって人格ごと所有,支配される人間で,法律のうえでは動産の一種とみなされた。ギリシア,ローマ社会に典型的な形で登場し,戦争捕虜や略奪,誘拐の犠牲者となった周辺部の外国人が奴隷とされた。古代文化は奴隷労働のうえに栄えたが,市民の間に労働蔑視の気風を生み,ローマのスパルタクスの反乱にみられるように,大規模な奴隷反乱を勃発させた。ローマ帝政末期には奴隷制に代わって小作制が普及するようになる。15世紀にポルトガルは本国および東大西洋の島嶼植民地にアフリカ人奴隷を輸入し始め,大西洋奴隷貿易の端緒を開いた。16世紀半ばにはリスボンの人口の10%は奴隷だったという。16世紀以降西ヨーロッパ諸国が西半球に植民地を建設し,それら植民地は特に17~18世紀には多くのアフリカ人奴隷を輸入したので,ポルトガル,イギリス,フランス,オランダなどの商人たちが19世紀初めまで盛んに大西洋奴隷貿易に従事した。カリブ海地域は最も多くの奴隷を輸入(約550万人,西半球の奴隷輸入の約半数に相当)したが,死亡率が高く,19世紀半ばにはアフリカ人人口は210万人にすぎなかった。他方,北アメリカのイギリス領植民地および独立後のアメリカ合衆国への奴隷輸入は40万人程度であったが,奴隷人口の増加がめだち,南北戦争直前の1860年には,約500万人の奴隷が南部諸州で主として農業労働に従事していた。奴隷は白人文化の影響を受ける一方で,アフリカ伝来の諸部族の文化を融合させて,新しいアフリカ系アメリカ人文化を創造した。一方,イスラーム社会では,戦争捕虜以外に,トルコ人,スラヴ人,ギリシア人,アルメニア人,チェルケス(サーカシア)人,ヌビア人,黒人などが奴隷として購入された。男奴隷は,家内奴隷(多くは宦官(かんがん))として用いられるほか,軍事奴隷(マムルーク)としても重要な役割を演じたが,農業奴隷が大規模に用いられることは稀であった。女奴隷は,ハレムへ入る者以外に,歌姫,料理女,子守として広く用いられた。これらの奴隷は家族として認められ,また教育のある奴隷が主人の子弟の養育係をつとめることもしばしばであった。中国では奴隷は史料では「奴婢(ぬひ)」と称せられた。その存在はすでに殷(いん)代に認められ,20世紀初めまで一貫して続いた。犯罪と捕虜のほか,借金のために妻子を売る債務によるものも少なくなかった。秦漢以降では良民とは区別された。他の奴隷と同様売買の対象となったが,官の所有が多かったこと,財産権や婚姻が認められていたこと,奴隷主家内の雑用が主たる仕事で社会全体の主要な生産の担い手になりきらなかったことなどが特徴としてあげられる。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
この記事が気に入ったらいいね!しよう