4コマで「富士山」

「一富士、二鷹、三茄子」と言われるように、富士山はお正月の縁起物であり日本のシンボルです。どのように日本人に愛されてきたかを4コマでご紹介。

4コマで「富士山」

富士山

静岡・山梨両県にまたがるコニーデ型火山。標高3776mで日本の最高峰。かつては活発な火山活動があったが,1707年(宝永4)の大噴火以後は活動を停止している。古代以来信仰の対象で,「常陸国風土記」に福慈岳とあるのが初見。奈良時代以後噴火が激しくなると浅間明神として信仰され,神仏習合の浅間菩薩が成立,さらに木花開耶姫を浅間神社の祭神とするようになった。平安時代からは富士を霊場とする修験者の登山が始まり,室町時代には庶民に浸透して富士信仰が成立,近世には各地に富士講ができ,信仰登山が活発となった。登山口は大宮・須山・須走・吉田にある。なお「万葉集」以来富士山の秀麗な姿が歌われ,紀行文にも描かれた。絵画では葛飾北斎の「富嶽三十六景」が有名。明治維新以後各地のコニーデ型の山を○○富士と命名することが流行し,日本の象徴として意識されるようになった。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、846ページ、2016年、山川出版社

富士講

富士山への参拝を目的とした信仰集団。富士山は原始信仰の段階から信仰の対象とされ,室町時代には登山によって祈願する登拝も行われ,長谷川角行により講も組織されたと伝える。江戸時代になると,御師の活動などで富士登拝が一般化し,中期には村上光清派と食行身禄派にわかれて布教が行われたが,しだいに後者が優勢となった。身禄派は,飢饉などの社会不安が続くなかで現世利益を説き,救世や平等的考えを主張,尊王思想とも結びついて講を拡大した。このため幕府は富士登山の禁令をいくたびも出して統制。明治期以降,この思想は実行教・扶桑教などの新興宗教に継承された。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、846ページ、2016年、山川出版社

明治維新

19世紀の半ば,幕藩体制を打破し,西洋国際体系へ参加して近代国民国家を形成する契機となった政治社会の大変革。「維新」という文字は幕末に使われた「一新」という語を「詩経」中の雅語でおき換えたもの。期間については,起点を天保年間(1830〜40年代),ペリー来航と開国(1853・54),終点を廃藩置県(1871),西南戦争の終結(1877),立憲政治の実現(明治憲法の制定と帝国議会の開設,1889・90)などにおく諸見解がある。明治維新の性格規定については,(1)絶対主義の形成,(2)ブルジョア革命,(3)民族(国民)革命などの諸説がある。とくに(3)は,欧米先進列強により加えられた外圧(西欧の衝撃)への反応という側面を強調した見方である。維新によって生じた構造的変化は,第1に中華帝国秩序の縁辺に孤立していた日本が西洋国際体系に参加し,開放体制に移行したこと,第2にそれまでの多元的な政体が王政復古と廃藩置県を通じて一元化され,さらに国民の公議参加への道が開かれたこと,第3に身分制が大幅に解体され,経済・社会の自由化が行われたこと,第4に古代以来の中華文明にかわって西洋文明が社会のモデルになったことなどであった。変革の規模はこのように19世紀の世界の諸革命のなかで最大の部類に属したが,それにともなう人命の犠牲は推定3万人程度と比較的少なかった。維新における対立・抗争が身分間の闘争とならなかったこと,強い対外危機意識が対立・抗争を抑制する機能をはたしたことなどが要因と考えられる。また旧体制解体の過程で威力をふるった「復古」象徴は,廃藩置県による王政復古の完成後は「開化」象徴にその位置を譲り,欧化にともなう文化的摩擦も最小限にとどまった。明治維新は西洋によるグローバルな国際社会の形成運動に対する,伝統と新来の西洋文明をともに動員した非西洋の組織的応答の一つの成功例といえよう。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、964ページ、2016年、山川出版社

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