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4コマで「津田梅子」〜新紙幣デザイン発表記念 vol.02〜

新紙幣の5000円札に描かれることになった津田梅子とはどんな人か? 彼女の人生と功績を4コマで解説します。

4コマで津田梅子

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津田梅子(つだうめこ)

生没 1864.12.3~1929.8.16 明治・大正期の教育家。津田塾大学創立者。明治政府がアメリカへ派遣した最初の女子留学生。本名むめ。江戸牛込生れ。津田仙の次女。開拓使が募集した女子留学生として1871年(明治4)岩倉使節団に同行して渡米。ワシントン郊外のC.ランメン宅に滞在して通学,受洗する。82年帰国。日本語を忘れ,日本の生活への適応に苦労するが,やがて伊藤博文家の通訳兼家庭教師となる。85年から華族女学校で教鞭をとり,89年再渡米。ブリンマー大学の選科生となる。92年帰国し,華族女学校に戻り,98年には女子高等師範学校教授も兼任。帰国以来抱いていた日本女性の地位向上には高等教育が必要であるとの考えにもとづき,1900年女子英学塾(現,津田塾大学)を東京麹町に設立した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

女子英学塾(じょしえいがくじゅく)

1900年(明治33)津田梅子が東京市麹町区の住宅に生徒10人で開校。英語教授と英語教員養成を目的とし,少人数で男子と同じ教育を施した。04年専門学校令で認可され,05年には英語科教員無試験検定が認可される。31年(昭和6)東京府下小平町に移転。33年津田英学塾と改称。43年理科を増設し津田塾専門学校,48年津田塾大学となる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

岩倉遣外使節(いわくらけんがいしせつ)

明治初年に政府が海外に派遣した大使節団。明治政府は,(1)締盟国表敬訪問,(2)条約改正予備協議,(3)制度文物視察のため,岩倉具視(ともみ)を特命全権大使,木戸孝允(たかよし)・大久保利通(としみち)・伊藤博文・山口尚芳(なおよし)を副使とし,理事官以下計40余人を派遣。同行した留学生ともで約100人。1871年(明治4)12月23日アメリカの船で横浜を出帆。米,英,仏,ベルギー,蘭,独,露,デンマーク,スウェーデン,伊,オーストリア,スイスの12カ国を巡訪,各国元首らに会い近代的諸施設を視察した。アメリカでは条約改正交渉に入ったため,大久保・伊藤が全権委任状をうけに一時帰国したが,交渉は中止。ヨーロッパ各国でも信教の自由と内地開放を要望され,留守政府は禁教の高札を撤去。73年9月13日帰国。使節の在外中に内定した西郷特使朝鮮派遣をめぐり征韓論争・政変を招いた。随行の久米邦武(くにたけ)は「米欧回覧実記」をまとめ,顧問フルベッキの献策による各分野の分担調査の成果は「理事功程」などに報告され,その後の日本の近代化に寄与した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

東京女子師範学校(とうきょうじょししはんがっこう)

日本で最初の官立女子師範学校として,1874年(明治7)設立。85年東京師範学校に合併され,翌年高等師範学校女子部となる。90年女子部が分離・独立し女子高等師範学校となる。文科・理科・技芸科(のち家事科)で構成。1908年奈良女子高等師範学校設立にともない東京女子高等師範学校と改称。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

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