4コマで「株式会社」

会社という形態は、株式会社、合同会社、合名会社、合資会社の4種類があります。中でも株式会社は、多くの人が一生のうちに一度は関わりを持つことになる会社ではないでしょうか?今回は、そんな現代に生きる人々と関わりの深い「株式会社」について、そのはじまりや、現代に至るまでナゼ普及したのかを4コマで振り返ります。

4コマで「株式会社」

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株式会社

stock corporation 複数の社員(株主)が,株式による出資額を限度とする責任(有限責任)をとる企業形態をいう。株式とは,資本を少額で均等の金額に分けたもので,通常は証券の形をとる。複数の社員による出資や有限責任という制度は,すでに中世末以来ヨーロッパで発達した合名会社や合資会社で採用されていた。ただし株式会社という形態が初めて採用されたのは1602年(オランダ東インド会社)。少額で有限責任かつ譲渡が容易な証券という形態をとっているため,多数の出資者からの投資を期待できる。そのため,鉄道業や装置産業(化学工業,機械工業)など,巨額の資本を必要とする産業における企業設立に適しており,これら産業が発達した19世紀後半に急速に普及した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

東インド会社

East India Company 17世紀から19世紀にかけて,東インドとヨーロッパとの間の貿易や,南アジア,東南アジアにおける植民地の経営に従事した,ヨーロッパ諸国の会社の総称。本来の目的は,香辛料,綿布などを産する東インドとヨーロッパとの間の貿易を独占し,高い利潤をあげることにあったが,次第に現地の支配者から支配権を奪い,土地と人を支配するようになっていった。その過程で,重商主義的な独占貿易を行う企業から,領土支配を行う準政府的な機関へと変質していった。イギリスとオランダは,それぞれ1600年と02年に,相次いで東インド会社を設立した。初めに優勢だったのはオランダ東インド会社で,東南アジアの香料と胡椒(こしょう)の貿易を支配し,次いで,生産そのものを掌握するために,ジャワ島を中心に,内陸部の土地と人を支配するようになった。こうして成立したのがオランダ領東インドである。オランダ東インド会社は1799年末に解散した。立ち後れたイギリス東インド会社は,インド貿易(綿布,藍(あい),胡椒など)と中国貿易(茶,絹など)に集中した。1757年,プラッシーの戦いに勝利してベンガルの覇権を獲得したのを皮切りに,征服戦争を進め,1810年代末までにはインドの主要部分を英領インドとして領有するに至った。しかし他方では,自由貿易主義者から激しい批判を浴びせられ,14年にはインド貿易の独占を,34年には中国貿易の独占を放棄させられ,58年,シパーヒーの反乱の責任をとらされる形で活動を停止した。なお,フランス,デンマークなども東インド会社を設立したが,重要な役割を果たしたとはいえない。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

おもに近世の社会集団内に占める成員の地位や資格の呼称。これが固定的・世襲的な権益として物権化し,相続や売買,譲渡の対象となった。御家人株や名主株のように,本来は世襲的な身分や業務が,人格から分離してある種の権益となり,売買の対象となった場合や,百姓株のように村落共同体の維持を目的に成立した場合もあったが,一般的には都市の諸商人・諸職人の株仲間のように,仲間規制や領主の政策によって固定化・独占化された営業権が株となる場合が多い。近代になって株式会社の制度が導入されると,企業の出資形態として用いられるようになった。現代の日本相撲協会の年寄株などに前近代の名残をみることができる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

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