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観応の擾乱(かんのうのじょうらん)

足利尊氏・直義(ただよし)兄弟の対立によりおこった室町幕府の分裂とそれに連動する全国的内乱。初期室町幕府は,恩賞給与・守護職任免などの主従制的支配権を将軍尊氏が握り,所領裁判権・安堵権を中核とする統治権的支配権を弟直義が掌握する体制をとっており,必然的にそれぞれを中心とする党派が形成された。尊氏の権限を代行したのは執事の高師直(こうのもろなお)で,まず師直と直義との抗争が表面化した。1349年(貞和5・正平4)師直が尊氏に迫り直義を引退させると,直義の養子直冬(ただふゆ)が西国で挙兵。翌50年(観応元・正平5)には直義党の上杉憲顕(のりあき)・能憲(よしのり)父子が関東で,直義自身も南朝に帰順して河内で挙兵した。51年2月,直義党は師直以下の高一族を摂津国武庫川(むこがわ)で殺害し,尊氏と一時和睦して幕府の実権は直義が握った。しかし直義が寺社本所擁護の政策をくり返した結果,離反する武将が相次ぎ,同7月直義は政務を辞して引退。8月,尊氏・義詮(よしあきら)父子が東西から直義を挟撃しようとして出京すると,直義は京都を脱出,勢力圏である北陸路をへて鎌倉をめざした。今度は尊氏が南朝に降り,直義討伐を正当化して,11月東海道を東下,52年(文和元・正平7)1月直義軍を破って鎌倉に入り,2月26日直義を殺害。直義の死で幕府の二元的権力はしだいに統一にむかうが,直冬をはじめ直義党武将の反抗はなお続けられ,南朝方の延命につながった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

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