氏姓制度(しせいせいど)
日本古代の族制的な身分制度。中央や地方の豪族に,その国家機構における役割や社会的な地位に応じて,朝廷から氏(うじ)と姓(かばね)とを与え,豪族はそれを世襲した(氏と姓とを含めて姓(せい)と称することもある)。ウジは大和政権を構成する諸豪族がそれぞれ他と区別するために帯びた称呼で,大伴(おおとも)・中臣(なかとみ)など朝廷の職務を名に負う伴造(とものみやつこ)氏族においてまず成立し,ついで葛城・巨勢(こせ)など地名を負うウジが出現したと考えられる。ウジの基盤は血縁的な同族集団であるが,大和政権のもとでは,それは政治的な身分秩序としての性格をもつものであった。他方,カバネはそれぞれの氏の職務・家柄などを示す称で,5世紀後半以降まず臣(おみ)・連(むらじ)・君(公)などのカバネが成立し,ついで渡来氏族の品部(しなべ)の伴造としての造(みやつこ)や,国造(くにのみやつこ)のカバネとしての直(あたい)などが出現したと思われる。その後大和政権の発展にともなってウジ・カバネの賜与の範囲は拡大し,7世紀初めには臣・連・伴造・国造・百八十部(ももあまりやそとものお)とよばれる身分体系が形成された。さらに7世紀後半には中央集権的な国家機構が形成され,670年(天智9)の庚午年籍(こうごねんじゃく)など全国的な戸籍の作製が進み,一般の人民にも部(べ)姓を主とする氏姓が付与され,氏姓は天皇・皇親(親王・諸王)・奴婢(ぬひ)以外のすべての人民を含む,国家的な身分制度となった。他方豪族層の氏姓の再編も進み,天智朝には氏上(うじのかみ)や大氏・小氏の制が定められ,684年(天武13)には真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)のカバネが新設されて,皇親を中心とする新たな氏姓秩序の形成がはかられた(八色の姓(やくさのかばね))。律令制のもとで氏姓は位階の制と対応し,国家秩序を保持する役割をになったが,9世紀に入ると,貴族社会内部の変化や呪術的な思想の消滅によって,氏姓の規範的な役割は失われ,氏姓は国家的な身分制度としての意味を失っていった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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