4コマで「朝鮮通信使」

およそ400年前、国交断絶状態だった日本と李氏朝鮮の関係が修復され、実現したのが朝鮮通信使でした。日本と韓国に遺された「朝鮮通信使に関する記録」が、ユネスコの「世界の記憶」に登録されています。

4コマで朝鮮通信使

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この記録には悲惨な戦争を経験した両国が平和な時代を築き、維持していく方法と知恵が凝縮されており、「誠真交隣」を交流の共通理念として対等な立場で相手国を尊重するという異民族同士の交流が実現している。その結果、両国だけでなく東アジアでも政治的安定がもたらされ、安定した交易ルートも長期間確保することができた。
したがって、この記録は両国の歴史的経験により証明された平和的・知的遺産であり、永遠の平和共存関係と異文化尊重を目指すという人類共通の課題を解決する上で顕著な普遍的価値を有する。

文化財庁「朝鮮通信使の記録」より抜粋

関連用語

朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし):日本史小辞典

通信使・朝鮮信使・朝鮮来聘使・韓使とも。15~19世紀,朝鮮国王が日本の武家政権主宰者に対して派遣した使節。狭義にはそのうち来日目的や使節の称号などで一定の条件を満たす使節。15世紀,朝鮮王朝は日本情勢探索と倭寇(わこう)禁止要請のため通信使派遣を計画し,世宗期(1419~50)の3回は実際に足利将軍に会見した。1590年(天正18)の通信使は,豊臣秀吉の朝貢使要求を対馬の宗氏が通信使派遣にすりかえて交渉した結果実現した。江戸時代は,1607~1811年(慶長12~文化8)に合計12回朝鮮国王の使節が来日した。初期の3回は答礼と捕虜帰国のための派遣で,厳密には通信使ではないが,1655年(明暦元)以降は徳川将軍の代替りごとの派遣が定例となった。使節の人員は300~500人にのぼり,朝鮮・日本側とも多大の経費と労力をかけて準備と接待にあたった。日本各地には通信使に縁のある書籍・芸能・絵画などが残されており,使節が両国文化交流のうえで大きな役割をはたしたことを示している。しかし19世紀には両国とも消極的になり,1811年対馬での聘礼(へいれい)が最後になった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語集:朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし):日本史小事典

朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし):世界史小辞典

朝鮮王朝の国王が日本の最高権力者に国書を伝えるために派遣した使節。1404年に足利義満(よしみつ)に対して派遣したのが最初で,以後,1811年まで続いた。豊臣軍の朝鮮侵攻で両国の国交は中断されたが,徳川幕府は国交の再開を望み,対馬の宗氏(そうし)の努力もあって,1607年に回答兼刷還使(さつかんし)という名目で再開された。36年以後は通信使の名称が定着し,多くは徳川将軍の襲職慶賀を名目に派遣された。室町時代には両国の使節が互いに都まで派遣されたが,江戸時代には日本側の使節は東莱(とうらい)(釜山(プサン))の倭館に派遣が認められるだけであった。朝鮮から派遣される使節の規模は数百人にのぼり,江戸までの道中では文人たちとの詩文の交換など,盛んな歓待を受けた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

●出典
用語集:朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし):世界史小事典

豊臣秀吉(とよとみひでよし):日本史小辞典

生没 1537.2.6~98.8.18 織豊期の天下を統一した武将。尾張国愛智郡中村生れ。百姓弥右衛門の子。母はなか(天瑞院)。尾張を出,松下之綱に仕えた後,織田信長に仕える。はじめ木下藤吉郎。信長入京後は京都の民政にあたり,1573年(天正元)北近江の長浜城主となる。この頃から羽柴姓を用い,77年10月からは中国攻めに従事。82年6月本能寺の変に接し毛利輝元と急ぎ和睦して,山崎の戦で明智光秀を倒す。83年4月,柴田勝家を賤ケ岳(しずがたけ)の戦で破って信長の後継者の地位を固め,大坂城を本拠とした。84年,小牧・長久手の戦をへて徳川家康を臣従させ,85年関白,翌年太政大臣となり,豊臣姓を受けた。四国・九州に続き,90年,関東・奥羽を服属させ,全国統一を完成。92年(文禄元)からは「征明」を意図して朝鮮に出兵(文禄・慶長の役)したが,朝鮮水軍の抵抗などに苦戦するなか,98年(慶長3)8月死去。秀吉は,ほぼ全国に行った太閤検地と刀狩によって兵農分離を完成させ,近世社会の基礎を築いた。また九州攻めの後,バテレン追放令を出しキリスト教の布教を禁じたが,ポルトガルとの貿易は継続したので徹底しなかった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:豊臣秀吉(とよとみひでよし):日本史小辞典

豊臣秀吉(とよとみひでよし):世界史小辞典

1537~98 日本の安土桃山時代の武将。尾張国中村の人。織田信長に仕え,頭角を現す。本能寺の変に接し,明智光秀を討ち,続いて柴田勝家を破って信長の後継者となる。1590年全国統一を果たす。92年,明の征服を目的に朝鮮に侵攻(文禄の役,壬辰(じんしん)の倭乱)。平壌(へいじょう)の役で明軍に敗れ撤退。その後の日明交渉は難航し,97年に戦闘が再開され(慶長の役,丁酉(ていゆう)の倭乱),翌年8月の秀吉の死によって終了した。日本では立身出世の人物として人気があるが,朝鮮では国土を荒廃させた侵略者である。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
●出典
用語:豊臣秀吉(とよとみひでよし):世界史小辞典

文禄の役(ぶんろくのえき)

1592年(文禄元)4月,豊臣秀吉が明征服をめざして朝鮮に侵略した戦争(第1次朝鮮侵略)。朝鮮側では壬辰(じんしん)の倭乱とよぶ。これより先,秀吉は東アジア征服構想をたて,対馬の宗氏を通じて朝鮮に服属と明への先導を命じた。交易上,朝鮮と密接な関係にあった宗氏は,秀吉の日本統一を祝賀する通信使派遣によってその命令をすりかえたが,秀吉はこれを征明嚮導の服属使節と思いこみ,16万の兵を朝鮮に送った。これを予期しなかった朝鮮側は防戦したものの敗北を重ね,同年5月漢城(現,ソウル)が陥落,朝鮮国王は義州に難を避け,明の救援を仰いだ。日本軍は小西行長が平壌,加藤清正が咸鏡道まで侵入するなど朝鮮全域の支配をめざし,朝鮮農民から兵粮の徴発をした。しかし朝鮮各地での義兵決起,朝鮮官軍の立ち直り,李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍による日本軍の補給路遮断があり,明軍もいち早く朝鮮を救援した。ここに日本軍は武器・兵粮不足に陥り,攻守所を変えた。翌年1月7日李如松(りじょしょう)の率いる明軍は小西行長の拠る平壌を陥れ,漢城めざして南下したが,碧蹄館(へきていかん)で小早川隆景らの日本軍の反撃にあい,戦意を喪失した。このあと日明間で講和の機運がもちあがり,朝鮮側の反対をおしきって講和交渉が進められた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語集:文禄の役(ぶんろくのえき)

慶長の役(けいちょうのえき)

1597年(慶長2)2月~98年11月の豊臣秀吉の第2次朝鮮侵略。朝鮮側では丁酉(ていゆう)の倭乱とよぶ。秀吉は日明講和交渉で,明皇帝の皇女を日本の天皇の后にすること,日明間の勘合を復活し官船・商船を往来させること,朝鮮南4道の日本割譲など和議条件7カ条を提示したがいれられず,明皇帝からは「茲(ここ)に爾(なんじ)を封(ほう)じて日本国王と為す」との誥命(こうめい)のみで,講和交渉は破綻。秀吉は朝鮮南4道を実力で奪うため,97年朝鮮に約14万を再派兵。7月,日本軍は慶尚道巨済島で元均(げんきん)の率いる朝鮮水軍を破り,8月全羅道南原城を陥れた。これに対し明・朝鮮側も反撃の態勢を固め,12月蔚山(ウルサン)新城の包囲(蔚山の戦),翌98年10月泗川(しせん)新城の攻撃を行った。結局同年8月の秀吉の死を機に日本軍は10月から朝鮮撤退を始めたが,この侵略で朝鮮抗日組織指導者の惨殺,朝鮮民衆の鼻切りなどの残虐行為のほか,農民・陶工・朱子学者など朝鮮人捕虜の日本強制連行を行った。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語集:慶長の役(けいちょうのえき)

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