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4コマで本能寺の変 〜 信長はなぜ裏切られたのか? 〜

優れた軍事指導者として、つぎつぎと戦国大名を倒しただけでなく、伝統的な政治や宗教の秩序・権威を克服することに積極的であった信長。当時、全国統一事業を完成しつつありました。組織性と機動力に富む強力な軍事力をつくりあげた信長が、なぜ裏切られてしまったのでしょうか?

4コマで本能寺の変

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関連用語

本能寺の変(ほんのうじのへん)

1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を襲い,自刃させた事件。備中国高松城を囲む豊臣秀吉の戦況報告にもとづいて,信長は毛利軍との全面対決を決意。みずからの出陣とともに,光秀にも出陣を要求した。光秀はただちに近江国坂本城に帰り,5月26日,坂本を出発して丹波国亀山城に入った。一方,信長は29日に安土をたち上洛,本能寺に宿した。6月1日夜,1万3000の軍勢を率いた光秀は亀山を出陣,老ノ坂で老臣に謀反の意向を告げ,2日明け方に本能寺を囲んだ。信長は森蘭丸らわずかな近臣とともに防戦したが自刃。妙覚寺にいた嫡子信忠も急を聞き,二条御所にこもって戦ったが,同じく自刃した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:本能寺の変(ほんのうじのへん)

織田信長(おだのぶなが)

生没 1534.5.12/28~82.6.2 戦国期~織豊期の武将。父は信秀。幼名吉法師。1546年(天文15)元服。信秀没後,本家の清須(洲)(きよす)・岩倉両織田家を滅ぼし尾張を統一。60年(永禄3)桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元を破り,67年美濃斎藤氏を降して岐阜に居城を移す。この頃から天下統一を意識して「天下布武」の印章を用いた。翌年,足利義昭とともに上洛し,義昭を将軍に擁立したが,その政治行動を牽制,ほどなく両者は不和となった。義昭に呼応する近江浅井・越前朝倉両氏をはじめ,比叡山延暦寺僧徒,甲斐武田氏,一向一揆などの包囲をうけて苦戦したが,73年(天正元)義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。75年長篠の戦で武田勝頼に大勝し,同年越前の一向一揆を鎮圧。翌年近江に安土城(現,滋賀県近江八幡市安土町)を築いて移った。80年石山本願寺を攻め降し,畿内を平定。82年春甲斐に遠征して武田氏を滅ぼし,つづいて中国・四国制圧を期して上洛中,本能寺で明智光秀の謀反にあい自害した(本能寺の変)。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:織田信長(おだのぶなが)

明智光秀(あけちみつひで)

生没 ?~1582.6.13 織豊期の武将。十兵衛。日向守。朝倉義景に仕えていた1568年(永禄11),足利義昭の織田信長上洛依頼に参画した。上洛が実現すると,京都支配に政治力を発揮し,義昭に属しながら信長に仕えた。信長軍として各地を転戦し,71年(元亀2)近江国坂本城主となり,75年(天正3)惟任(これとう)の名字を得,信長の丹波攻略の先鋒となった。79年平定終了後,丹波一国支配を認められた。82年信長が中国赴援に向かったおりに,京都の宿所の本能寺を襲撃し,戻って近江・美濃を支配下においた(本能寺の変)。しかし豊臣秀吉の反撃をうけ,山崎の戦で敗れ,山城国小栗栖(おぐるす)(現,京都市伏見区)で自刃した。女の玉(ガラシャ)は細川忠興の室。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:明智光秀(あけちみつひで)

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