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4コマで明智光秀〜すぐわかる戦国武将シリーズ〜

「裏切り者」「三日天下」とマイナスのイメージで語られることの多かった明智光秀に、新たな光が当てられようとしています。史実に基づく光秀の人生を、さくっと理解しておきましょう。

4コマで明智光秀

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関連用語

明智光秀(あけちみつひで)

生没 ?~1582.6.13 織豊期の武将。十兵衛。日向守。朝倉義景に仕えていた1568年(永禄11),足利義昭の織田信長上洛依頼に参画した。上洛が実現すると,京都支配に政治力を発揮し,義昭に属しながら信長に仕えた。信長軍として各地を転戦し,71年(元亀2)近江国坂本城主となり,75年(天正3)惟任(これとう)の名字を得,信長の丹波攻略の先鋒となった。79年平定終了後,丹波一国支配を認められた。82年信長が中国赴援に向かったおりに,京都の宿所の本能寺を襲撃し,戻って近江・美濃を支配下においた(本能寺の変)。しかし豊臣秀吉の反撃をうけ,山崎の戦で敗れ,山城国小栗栖(おぐるす)(現,京都市伏見区)で自刃した。女の玉(ガラシャ)は細川忠興の室。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語集:明智光秀(あけちみつひで)

朝倉義景(あさくらよしかげ)

生没 1533.9.24~73.8.20 越前国一乗谷(いちじょうだに)(現,福井市)を本拠とした戦国大名。孝景の子,母は若狭国武田氏の女。初名延景。孫次郎。左衛門督。法名松雲院大球宗光。1552年(天文21)将軍足利義輝の1字をうけて義景と改名。65年(永禄8)義輝が殺害されると,その弟一乗院覚慶(のち義昭)は義景を頼って越前に下った。68年元服した義昭は,上洛を願うが義景が応じなかったため,織田信長を頼って上洛をはたす。信長は70年(元亀元)4月,越前国敦賀に侵攻。義景は浅井長政と結んで信長をいったんは撤退させたものの,6月に信長と徳川家康の連合軍に近江国姉川で敗れた。73年(天正元)義景は信長を討つため出兵したが大敗。追撃され,一乗谷に火を放ったのち越前国大野郡(現,大野市)の賢松寺で自害。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語集:朝倉義景(あさくらよしかげ)

足利義昭(あしかがよしあき)

生没 1537.11.3~97.8.28 室町幕府の15代将軍(1568.10.18~73.7.18)。12代義晴の次男。母は近衛尚通(ひさみち)の女。初名義秋。法名霊陽院昌山道休。従三位権大納言・准三宮。はじめ興福寺一乗院に入室,覚慶(かくけい)と称して門跡(もんぜき)となる。1565年(永禄8)兄の将軍義輝が殺害されると,細川藤孝らにたすけられて近江に逃れた。翌年還俗,越前の朝倉義景を頼る。68年7月,織田信長に迎えられて岐阜に移り,9月入京,10月将軍となる。独自の政治活動のため信長と不和を生じ,72年(元亀3)本願寺顕如(けんにょ),浅井長政,朝倉義景,武田信玄ら反信長勢力を集めて包囲網を形成。翌年山城国槙島で挙兵するが,敗れて将軍位を追われ,室町幕府は滅亡。その後紀伊国由良に退き,ついで備後国鞆(とも)に移る。毛利氏に依頼して幕府再興をはかるがはたせなかった。88年(天正16)に帰京して出家,秀吉から1万石を与えられた。文禄の役(1592)では肥前国名護屋(なごや)に従軍。大坂で没した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語集:足利義昭(あしかがよしあき)

本能寺の変(ほんのうじのへん)

1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を襲い,自刃させた事件。備中国高松城を囲む豊臣秀吉の戦況報告にもとづいて,信長は毛利軍との全面対決を決意。みずからの出陣とともに,光秀にも出陣を要求した。光秀はただちに近江国坂本城に帰り,5月26日,坂本を出発して丹波国亀山城に入った。一方,信長は29日に安土をたち上洛,本能寺に宿した。6月1日夜,1万3000の軍勢を率いた光秀は亀山を出陣,老ノ坂で老臣に謀反の意向を告げ,2日明け方に本能寺を囲んだ。信長は森蘭丸らわずかな近臣とともに防戦したが自刃。妙覚寺にいた嫡子信忠も急を聞き,二条御所にこもって戦ったが,同じく自刃した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語集:本能寺の変(ほんのうじのへん)

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山崎の戦(やまざきのたたかい)

1582年(天正10)6月13日,山城国乙訓郡山崎付近(現,京都府大山崎町)で豊臣秀吉ら織田信長の旧臣連合軍が明智光秀の軍勢を破った戦。備中国高松城を包囲していた秀吉は,本能寺の変を知るとただちに毛利氏と和睦し,大軍を返して摂津国富田(現,大阪府高槻市付近)で諸勢を結集。光秀は迎撃すべく勝竜寺城(現,京都府長岡京市)に入り天王山を占拠した。6月13日の夕刻から始まった合戦で光秀は大敗,近江国坂本城に逃れる途中,土民の襲撃をうけ落命した。これによって秀吉は,織田旧臣のなかで勢威を高めた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語集:山崎の戦(やまざきのたたかい)

細川ガラシャ(ほそかわガラシャ)

生没 1563~1600.7.17 織豊期の女性キリシタン。明智光秀の女,細川忠興の室。名は玉子。1582年(天正10)本能寺の変後,丹後国味土野(みとの)に幽閉されるが,84年豊臣秀吉に許されて大坂の細川邸に移る。忠興が高山右近の友人だったことからキリシタンの教えに関心をもつ。87年忠興が九州出陣中に大坂の教会を訪問。侍女の清原枝賢(えだかた)の女に教理を学ばせ,侍女は受洗してマリアと称した。同年マリアから受洗,洗礼名ガラシャ。1600年(慶長5)関ケ原の戦に際し,石田三成(みつなり)に細川邸を囲まれ,家老にみずからを討たせた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語集:細川ガラシャ(ほそかわガラシャ)

細川忠興(ほそかわただおき)

生没 1563.11.13~1645.12.2 織豊期~江戸初期の武将。藤孝の長男。若年から父とともに織田信長に従い,松永久秀討伐をはじめ戦功をたてた。本能寺の変に際しては室のガラシャ(明智光秀の女)を一時離縁して光秀の誘いをしりぞけ,豊臣秀吉から丹後一国を安堵された。文禄の役では2年半朝鮮に滞陣。秀吉没後は親徳川派となり,関ケ原の戦功で豊前小倉39万石余に移封。1620年(元和6)病気により隠居し,剃髪して三斎宗立(さんさいそうりゅう)と号した。32年(寛永9)子忠利の国替えで肥後に移り,八代(やつしろ)を居城とした。引退後もつねに藩政や軍事について忠利を指導し,幕府有力者との関係保持に努めた。茶道は千利休の高弟で三斎流をおこした。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語集:細川忠興(ほそかわただおき)

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