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4コマで織田信長〜すぐわかる戦国武将シリーズ〜

「天下布武」を合言葉に、戦乱の時代を大きく転換させた織田信長。1.天下統一を意識するまでの快進撃、2.将軍・足利義昭ら反対勢力との戦い、3.その勝利から明智光秀の謀反、と3つのフェーズにわけるとすっきり理解できそうです。

戦国武将の生涯を振り返るシリーズの第1弾です。

4コマで織田信長

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関連用語

織田信長(おだのぶなが)

生没 1534.5.12/28~82.6.2 戦国期~織豊期の武将。父は信秀。幼名吉法師。1546年(天文15)元服。信秀没後,本家の清須(洲)(きよす)・岩倉両織田家を滅ぼし尾張を統一。60年(永禄3)桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元を破り,67年美濃斎藤氏を降して岐阜に居城を移す。この頃から天下統一を意識して「天下布武」の印章を用いた。翌年,足利義昭とともに上洛し,義昭を将軍に擁立したが,その政治行動を牽制,ほどなく両者は不和となった。義昭に呼応する近江浅井・越前朝倉両氏をはじめ,比叡山延暦寺僧徒,甲斐武田氏,一向一揆などの包囲をうけて苦戦したが,73年(天正元)義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。75年長篠の戦で武田勝頼に大勝し,同年越前の一向一揆を鎮圧。翌年近江に安土城(現,滋賀県近江八幡市安土町)を築いて移った。80年石山本願寺を攻め降し,畿内を平定。82年春甲斐に遠征して武田氏を滅ぼし,つづいて中国・四国制圧を期して上洛中,本能寺で明智光秀の謀反にあい自害した(本能寺の変)。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
織田信長(おだのぶなが)

織田信秀(おだのぶひで)

生没 1511~52?.3.3 戦国期の武将。織田信長の父。尾張国を代表する実力者となり近隣の大名と戦った。尾張国守護代織田氏の一族でその家臣だったが,天文初年自立して那古野城(現,名古屋市)に拠り,以後東の今川氏・西の斎藤氏と戦った。1542年(天文11)・48年2度の今川氏との小豆坂(あずきざか)の戦,48年の斎藤道三の女と信長の政略結婚は有名。晩年那古野城を信長に譲り末盛城(現,同市)に拠った。没年については諸説ある。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
織田信秀(おだのぶひで)

今川義元(いまがわよしもと)

生没 1519~60.5.19 戦国期の東海地方の武将。駿河・遠江・三河にわたる領国を築いた。1536年(天文5)兄遍照光院恵探(えたん)を倒して家督となり(花倉(はなくら)の乱),翌年武田信虎の女婿となった。その直後北条氏綱に駿河を侵されたが(河東一乱),45年攻勢に転じ,北条勢をおし返した。一方三河では松平氏とともに織田信秀と争い,42・48年の2度小豆坂(あずきざか)(現,愛知県岡崎市)で戦った。54年北条氏康・武田信玄と同盟を結び(善徳寺の会盟),織田氏との抗争に専念する態勢をつくったが,60年(永禄3)尾張国桶狭間(現,愛知県名古屋市と豊明市の2説)で織田信長に急襲されて敗死。内政面では徹底した検地とそれにもとづく兵力増強を行い,商工業の振興・統制など富国強兵を推進。53年には仮名目録追加を制定し,その一節「自分の力量を以て国の法度(はっと)を申付」は,戦国大名を象徴する言葉として有名。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
今川義元(いまがわよしもと)

足利義昭(あしかがよしあき)

生没 1537.11.3~97.8.28 室町幕府の15代将軍(1568.10.18~73.7.18)。12代義晴の次男。母は近衛尚通(ひさみち)の女。初名義秋。法名霊陽院昌山道休。従三位権大納言・准三宮。はじめ興福寺一乗院に入室,覚慶(かくけい)と称して門跡(もんぜき)となる。1565年(永禄8)兄の将軍義輝が殺害されると,細川藤孝らにたすけられて近江に逃れた。翌年還俗,越前の朝倉義景を頼る。68年7月,織田信長に迎えられて岐阜に移り,9月入京,10月将軍となる。独自の政治活動のため信長と不和を生じ,72年(元亀3)本願寺顕如(けんにょ),浅井長政,朝倉義景,武田信玄ら反信長勢力を集めて包囲網を形成。翌年山城国槙島で挙兵するが,敗れて将軍位を追われ,室町幕府は滅亡。その後紀伊国由良に退き,ついで備後国鞆(とも)に移る。毛利氏に依頼して幕府再興をはかるがはたせなかった。88年(天正16)に帰京して出家,秀吉から1万石を与えられた。文禄の役(1592)では肥前国名護屋(なごや)に従軍。大坂で没した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
足利義昭(あしかがよしあき)

武田勝頼(たけだかつより)

生没 1546~82.3.11 戦国期~織豊期の武将。武田信玄の子。1565年(永禄8)兄義信の失脚により嗣子となる。73年(天正元)信玄が死に,76年正式に家督となった。この間遠江・三河に進攻したが,75年織田信長・徳川家康軍に大敗し(長篠の戦),以後しだいに守勢となった。78年後北条氏とも敵対関係になり,東西に大敵を抱えた。81年本拠を甲府から新府(現,山梨県韮崎市)に移したが,82年木曾義昌・穴山梅雪らがあいついで信長・家康に通じ,これに呼応して織田・徳川軍は諸方面から甲斐・信濃に進攻。小山田信茂の離反もあって,甲斐国田野(現,同県甲州市)の天目山(てんもくざん)の戦で追いつめられ自殺。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
武田勝頼(たけだかつより)

斎藤道三(さいとうどうさん)

生没 1494/1504~1556.4.20 戦国期の武将。美濃国稲葉山城(現,岐阜市)城主。実名利政。初名長井規秀。山城の商人から身をおこして一代で美濃国主になったといわれるが,父とみられる西村新左衛門尉は,大永年間すでに美濃で活動している。1533年(天文2)はじめて史料上に現れ,35年頃に土岐頼芸(よりなり)を守護に擁立,実権を握ったとみられる。38年以後斎藤氏を称す。朝倉・織田両氏など美濃内外の諸勢力と争ったが,48年織田信長を女婿とし,同盟を結んだ。52年頃,頼芸を近江に追放し,名実ともに美濃国主となった。54年嫡子義竜(よしたつ)に家督を譲るが,これは引退を強要された結果とみられる。のち義竜と武力衝突になり,56年(弘治2)長良川合戦で敗死。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
斎藤道三(さいとうどうさん)

室町幕府(むろまちばくふ)

足利尊氏が1336年(建武3・延元元)に開設した武家政権。名目的には15代将軍義昭が織田信長に追放される1573年(天正元)まで続いた。名称は3代義満が本拠を構えた京都室町邸にちなむ。鎌倉幕府にならい諸機関が設置されたが,室町幕府では将軍補佐の重職として管領(かんれい)がおかれ,評定(ひょうじょう)・引付(ひきつけ)は初期に衰退して将軍親裁の御前沙汰(ごぜんざた)にかわった。将軍は直轄軍の奉公衆と直轄領の御料所をもち,京都を支配して土倉(どそう)・酒屋に財源を求めたが,京都支配のうえで政所(まんどころ)・侍所(さむらいどころ)が重要な機関となった。地方には鎌倉府・九州探題,諸国に守護がおかれた。幕府は一門中心の守護配置策をとり,南北朝内乱の過程で強権を付与して幕府支配体制の根幹とした。義満は明徳・応永の両乱で強豪守護の勢力を削減,南北朝合一をはたして国内を統一し,朝廷勢力を圧倒して公武統一政権を樹立。中国の明との国交を開き日本国王の称号を得た。しかし守護は任国を領国化して分権的傾向を強めた。将軍は守護統制のため守護の在京を義務づけ,有力守護を幕府の要職に任じ幕政を担当させた。義満の死により有力守護の支持で義持(よしもち)が擁立されると,幕政は管領を中心に有力守護層の合議により運営された。6代義教(よしのり)は専制化を志向,将軍の親裁権を強化するとともに守護大名抑圧策を断行したが,その反動で嘉吉の乱に倒れた。義教が行った守護家家督への介入は守護家の内紛をあおり,かえって幕府の諸国支配を困難とし,守護勢力間の均衡関係を崩して応仁・文明の乱勃発の原因となった。乱ののち守護は在国化して,幕府に結集せず,将軍は守護に対する統制力を失った。将軍義尚(よしひさ)および義稙(よしたね)は奉公衆を基盤として権威回復をはかるが,明応の政変で幕府の実権は細川氏に掌握された。以後,義澄(よしずみ)・義晴・義輝が細川氏などに擁立されたが,各地に割拠する戦国大名に全国支配をさえぎられ,義輝は松永久秀に殺された。義栄(よしひで)ののち,織田信長に擁立された15代義昭も,1573年(天正元)信長と不和となって京都を追われ,室町幕府は滅びた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
室町幕府(むろまちばくふ)

顕如(けんにょ)

生没 1543.1.6~92.11.24 織豊期の浄土真宗の僧。本願寺11世。幼名は茶々,法名は顕如。諱は光佐(こうさ)。父は10世証如,母は権中納言庭田重親の女。1554年(天文23)得度。59年(永禄2)門跡に列する。70~80年(元亀元~天正8)織田信長との間に石山合戦を展開。正親町(おおぎまち)天皇の仲裁で和議し,石山を退き紀伊国鷺森,ついで和泉国貝塚に移り,85年豊臣秀吉の命により石山に帰る。91年,秀吉から京都堀川七条に寺地を与えられる。顕如の死後,長男教如(きょうにょ)がつぐが,秀吉は三男准如に継職の証状を与えた。しかし徳川家康は教如をとりたて,教如は京都烏丸六条に寺地を得て東本願寺を建立。准如方の西本願寺と分裂した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
顕如(けんにょ)

明智光秀(あけちみつひで)

生没 ?~1582.6.13 織豊期の武将。十兵衛。日向守。朝倉義景に仕えていた1568年(永禄11),足利義昭の織田信長上洛依頼に参画した。上洛が実現すると,京都支配に政治力を発揮し,義昭に属しながら信長に仕えた。信長軍として各地を転戦し,71年(元亀2)近江国坂本城主となり,75年(天正3)惟任(これとう)の名字を得,信長の丹波攻略の先鋒となった。79年平定終了後,丹波一国支配を認められた。82年信長が中国赴援に向かったおりに,京都の宿所の本能寺を襲撃し,戻って近江・美濃を支配下においた(本能寺の変)。しかし豊臣秀吉の反撃をうけ,山崎の戦で敗れ,山城国小栗栖(おぐるす)(現,京都市伏見区)で自刃した。女の玉(ガラシャ)は細川忠興の室。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
明智光秀(あけちみつひで)

本能寺の変

1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を襲い,自刃させた事件。備中国高松城を囲む豊臣秀吉の戦況報告にもとづいて,信長は毛利軍との全面対決を決意。みずからの出陣とともに,光秀にも出陣を要求した。光秀はただちに近江国坂本城に帰り,5月26日,坂本を出発して丹波国亀山城に入った。一方,信長は29日に安土をたち上洛,本能寺に宿した。6月1日夜,1万3000の軍勢を率いた光秀は亀山を出陣,老ノ坂で老臣に謀反の意向を告げ,2日明け方に本能寺を囲んだ。信長は森蘭丸らわずかな近臣とともに防戦したが自刃。妙覚寺にいた嫡子信忠も急を聞き,二条御所にこもって戦ったが,同じく自刃した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語集:本能寺の変

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