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4コマで黒田官兵衛〜すぐわかる戦国武将シリーズ〜

天才的な軍師、築城名人として知られ、大河ドラマの主人公にもなった黒田官兵衛(孝高・如水)。波乱の人生を簡単解説します。

4コマで黒田官兵衛

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関連用語

黒田孝高(くろだよしたか)

生没 1546.11.29~1604.3.20 織豊期の武将。職隆(のりたか)の子。万吉・官兵衛。勘解由(かげゆ)。号は如水。1577年(天正5)主家の小寺氏に織田信長に通じることを勧め,豊臣秀吉を播磨に迎えた。以後秀吉の股肱として,播磨攻略,高松城水攻め,毛利氏との講和交渉などにあたった。87年豊前国6郡をえて中津に入部。89年家督を子の長政に譲った。文禄・慶長の役に出陣。関ケ原の戦では九州で東軍として戦った。伏見で没。1583年高山右近の感化で受洗し,洗礼名シメオン。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:黒田孝高(くろだよしたか)

織田信長(おだのぶなが)

生没 1534.5.12/28~82.6.2 戦国期~織豊期の武将。父は信秀。幼名吉法師。1546年(天文15)元服。信秀没後,本家の清須(洲)(きよす)・岩倉両織田家を滅ぼし尾張を統一。60年(永禄3)桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元を破り,67年美濃斎藤氏を降して岐阜に居城を移す。この頃から天下統一を意識して「天下布武」の印章を用いた。翌年,足利義昭とともに上洛し,義昭を将軍に擁立したが,その政治行動を牽制,ほどなく両者は不和となった。義昭に呼応する近江浅井・越前朝倉両氏をはじめ,比叡山延暦寺僧徒,甲斐武田氏,一向一揆などの包囲をうけて苦戦したが,73年(天正元)義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。75年長篠の戦で武田勝頼に大勝し,同年越前の一向一揆を鎮圧。翌年近江に安土城(現,滋賀県近江八幡市安土町)を築いて移った。80年石山本願寺を攻め降し,畿内を平定。82年春甲斐に遠征して武田氏を滅ぼし,つづいて中国・四国制圧を期して上洛中,本能寺で明智光秀の謀反にあい自害した(本能寺の変)。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:織田信長(おだのぶなが)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

生没 1537.2.6~98.8.18 織豊期の天下を統一した武将。尾張国愛智郡中村生れ。百姓弥右衛門の子。母はなか(天瑞院)。尾張を出,松下之綱に仕えた後,織田信長に仕える。はじめ木下藤吉郎。信長入京後は京都の民政にあたり,1573年(天正元)北近江の長浜城主となる。この頃から羽柴姓を用い,77年10月からは中国攻めに従事。82年6月本能寺の変に接し毛利輝元と急ぎ和睦して,山崎の戦で明智光秀を倒す。83年4月,柴田勝家を賤ケ岳(しずがたけ)の戦で破って信長の後継者の地位を固め,大坂城を本拠とした。84年,小牧・長久手の戦をへて徳川家康を臣従させ,85年関白,翌年太政大臣となり,豊臣姓を受けた。四国・九州に続き,90年,関東・奥羽を服属させ,全国統一を完成。92年(文禄元)からは「征明」を意図して朝鮮に出兵(文禄・慶長の役)したが,朝鮮水軍の抵抗などに苦戦するなか,98年(慶長3)8月死去。秀吉は,ほぼ全国に行った太閤検地と刀狩によって兵農分離を完成させ,近世社会の基礎を築いた。また九州攻めの後,バテレン追放令を出しキリスト教の布教を禁じたが,ポルトガルとの貿易は継続したので徹底しなかった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:豊臣秀吉(とよとみひでよし)

高松城(たかまつじょう)

岡山市にあった中世~近世の平城。天正年間(1573~92)石川氏が築城。1582年清水宗治が城主のとき,豊臣秀吉に攻められ籠城。秀吉は足守(あしもり)川をせき止める堤防と多数の陣城(じんじろ)を築き水攻めにした。毛利氏も後詰の兵を送り対峙したが,宗治の切腹で開城。その後花房正成が城主となり,元和年間(1615~24)まで陣屋が設けられた。低湿な地形を利用した五つの郭からなる。水堀の一部や郭が残り,中心部は公園化が進む。主郭には改葬された宗治の首塚がある。周辺には水攻めの堤防や両軍の陣城群の跡をみることができるが,陣城群は未整備。城跡と水攻築堤跡は国史跡。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:高松城(たかまつじょう)

関ケ原の戦(せきがはらのたたかい)

1600年(慶長5)9月15日,美濃国関ケ原(現,岐阜県関ケ原町)でおきた豊臣政権の主導権を争う戦。秀吉没後の豊臣政権は,五大老・五奉行による政務代行体制をとったが,しだいに五大老筆頭の徳川家康が政務を掌握した。同年5月,家康は上杉景勝の上洛要請拒否を理由に会津攻めを決定。家康の東征を機に,近江国佐和山城の石田三成が毛利輝元を総大将に家康打倒をめざし挙兵。石田方西軍は8月1日に伏見城を落し,11日大垣に入城,岐阜の織田秀信を陣営に組みいれた。下野国小山にいた家康は兵を返し,9月1日には江戸を出発。15日に両軍が関ケ原で激突した。一進一退の戦局は,小早川秀秋らの寝返りで東軍の勝利となった。ついで家康は佐和山城を落し,大坂城から毛利輝元を退去させた。10月1日,三成・小西行長・安国寺恵瓊(えけい)らを六条河原で処刑。戦後,家康の意図にもとづく大名配置が実施され,その権力は圧倒的なものとなった。天下分け目の戦ともいわれる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:関ケ原の戦(せきがはらのたたかい)

高山右近(たかやまうこん)

生没 1552~1615.2.5 織豊期の武将。図書の長男。名は友祥(ともなが)・長房,通称は右近・右近允。利休七哲の1人で南坊等白の号があり,キリシタン大名として著名。洗礼名ジュスト。1573年(天正元)摂津国高槻城主となり,78年荒木村重の乱で織田信長にそむいたが,オルガンティーノの勧告で降り,高槻4万石を安堵。信長の死後は豊臣秀吉に仕え,85年播磨国明石城主6万石。87年6月のバテレン追放令で改易。その後小西行長や前田利家・同利長らの保護をうけ,小田原攻めや関ケ原の戦に参陣。1614年(慶長19)禁教令によりマニラへ追放。翌年同地で病没。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:高山右近(たかやまうこん)

黒田長政(くろだながまさ)

生没 1568.12.3~1623.8.4 織豊期~江戸初期の大名。孝高(よしたか)の子。松寿・吉兵衛。甲斐守・筑前守。洗礼名ダミアン。1577年(天正5)父の人質として織田信長に差し出され,豊臣秀吉に預けられた。87年から秀吉の全国統一に従って転戦し,89年父の隠居により豊前国6郡ほかを襲封。文禄・慶長の役に出陣。1600年(慶長5)徳川家康の会津出兵に先鋒,関ケ原の戦では小早川秀秋の内応を画策し,筑前国50万石余を得て城地を福岡と名づけた。父の死後,棄教した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:黒田長政(くろだながまさ)

キリシタン大名(キリシタンだいみょう)

戦国期~江戸初期にキリシタンの洗礼をうけた大名。イエズス会はまず領主を信者にしたうえで領民を集団改宗させるという布教方針をとり,領主もポルトガル船がもたらす貿易品の獲得とキリシタンのもとでの統治を志向し,両者の利害の一致から多数出現した。江戸幕府のキリシタン禁教が徹底されると,高山右近など一部を例外として多くが棄教した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:キリシタン大名(キリシタンだいみょう)

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