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4コマで石田三成〜すぐわかる戦国武将シリーズ〜

徳川家康に天下分け目の戦いを挑んだ戦国武将。関ヶ原では武運に恵まれませんでしたが、豊臣政権では政治で活躍し、後世にも影響の大きい業績を遺しました。

4コマで石田三成

関連用語

石田三成(いしだみつなり)

生没 1560~1600.10.1 織豊期の武将。父は正継。近江国石田村生れ。早くから豊臣秀吉に仕え,秀吉の奉行として活躍。1586年(天正14)堺政所(まんどころ)を勤め,小田原攻め・朝鮮出兵などに功があった。豊臣政権の中枢にあり,軍需品輸送や行政・外交政策にその手腕を発揮した。とくに太閤検地に参画し,現在,島津家に三成署判の検地尺が残る。95年(文禄4)近江国佐和山城主となり19万4000石を領有。近江国内の豊臣蔵入地代官も兼任。秀吉死後,徳川家康に対抗して挙兵。1600年(慶長5)関ケ原の戦で敗走。近江で捕らえられ,小西行長らとともに京都で処刑。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語集:石田三成(いしだみつなり)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

生没 1537.2.6~98.8.18 織豊期の天下を統一した武将。尾張国愛智郡中村生れ。百姓弥右衛門の子。母はなか(天瑞院)。尾張を出,松下之綱に仕えた後,織田信長に仕える。はじめ木下藤吉郎。信長入京後は京都の民政にあたり,1573年(天正元)北近江の長浜城主となる。この頃から羽柴姓を用い,77年10月からは中国攻めに従事。82年6月本能寺の変に接し毛利輝元と急ぎ和睦して,山崎の戦で明智光秀を倒す。83年4月,柴田勝家を賤ケ岳(しずがたけ)の戦で破って信長の後継者の地位を固め,大坂城を本拠とした。84年,小牧・長久手の戦をへて徳川家康を臣従させ,85年関白,翌年太政大臣となり,豊臣姓を受けた。四国・九州に続き,90年,関東・奥羽を服属させ,全国統一を完成。92年(文禄元)からは「征明」を意図して朝鮮に出兵(文禄・慶長の役)したが,朝鮮水軍の抵抗などに苦戦するなか,98年(慶長3)8月死去。秀吉は,ほぼ全国に行った太閤検地と刀狩によって兵農分離を完成させ,近世社会の基礎を築いた。また九州攻めの後,バテレン追放令を出しキリスト教の布教を禁じたが,ポルトガルとの貿易は継続したので徹底しなかった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:豊臣秀吉(とよとみひでよし):日本史小辞典

五奉行(ごぶぎょう)

豊臣政権末期の職制。前田玄以・浅野長政・増田(ました)長盛・石田三成・長束(なつか)正家の5人をいう。「太閤記」に五奉行とあるが,浅野長政宛の豊臣秀吉の遺言状では年寄とよばれており,豊臣家の老職と考えてよい。彼らは秀吉子飼いの信任厚い家臣として豊臣政権の中枢にあったが,秀吉死後は五大老との合議が義務づけられた。1599年(慶長4)閏3月三成の失脚で徳川家康の指揮下に入り,同年10月の長政の甲斐謹慎により解体した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:五奉行(ごぶぎょう)

太閤検地(たいこうけんち)

天正の石直しとも。豊臣秀吉が全国に行った検地。1582年(天正10)明智光秀を破った直後に行った山城検地に始まるが,織田信長の奉行として行った1580年の播磨検地が,事実上の太閤検地の始まりとみなされる。秀吉は征服地を拡大するごとに原則として検地を行い,91年には国ごとに御前帳を提出させ,全国の土地が石高で一元的に表示されることとなった。以後も大名領内に奉行を派遣して重ねて検地を行った。秀吉の検地にあたる態度は征服地にとくにきびしく,反抗する者は一郷であっても「撫で切り」にすると強調している。検地の施行原則は,6尺3寸四方を1歩(ぶ),300歩を1段とし,田畑を上・中・下・下々にわけ,上田1段を1石5斗というように石盛し,枡も京枡に統一した。石高は米の予想生産量であるが,屋敷や山林なども石高に算定され,商品生産や流通上の収益なども考慮された。検地帳には耕地一筆ごとに1人の耕作者名が記載されたから,その者(名請人)の耕作権が保証され(一地一作人の原則),長(おとな)百姓が小百姓から作合(さくあい)をとることは禁止された(作合否定の原則)ので,小農の自立が促進された。太閤検地によって,残存していた荘園制は終止符をうたれ,兵農分離が確定し,石高制による近世封建社会の基礎が築かれた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:太閤検地(たいこうけんち)

徳川家康(とくがわいえやす)

生没 1542.12.26~1616.4.17 江戸幕府初代将軍(在職1603.2.12~05.4.16)。三河国岡崎城主松平広忠の長男。母は同刈谷城主水野忠政の女(於大(おだい)の方)。岡崎生れ。幼名竹千代,通称次郎三郎,諱は元信・元康・家康と改称。法号安国院。6歳から織田信秀,8歳から19歳まで今川義元の人質。1555年(弘治元)元服,60年(永禄3)桶狭間の戦で義元の敗死後に自立,61年織田信長と結んで三河平定。66年徳川に改姓,70年(元亀元)居城を浜松とし,姉川の戦で信長を助け,75年(天正3)長篠の戦で武田氏を破る。駿府に本拠を移して駿河・遠江・甲斐・信濃・三河の5カ国経営にあたったが,90年北条氏の滅亡後は関八州へ転封となった。豊臣秀吉の死後はいわゆる五大老の筆頭となり,1600年(慶長5)9月関ケ原の戦で石田三成を破り,天下統一をなす。03年征夷大将軍に任命され,従一位右大臣,源氏長者となり,江戸幕府を開いた。05年将軍職を子の秀忠に譲った後も,駿府で大御所政治をとった。15年(元和元)大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし元和偃武(えんぶ)を実現。16年3月太政大臣に任官,4月駿府城で病死。遺言で久能山に葬られたが,17年正一位を追贈,東照大権現の勅号をうけ,日光山に改葬された。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:徳川家康(とくがわいえやす)

関ケ原の戦(せきがはらのたたかい)

1600年(慶長5)9月15日,美濃国関ケ原(現,岐阜県関ケ原町)でおきた豊臣政権の主導権を争う戦。秀吉没後の豊臣政権は,五大老・五奉行による政務代行体制をとったが,しだいに五大老筆頭の徳川家康が政務を掌握した。同年5月,家康は上杉景勝の上洛要請拒否を理由に会津攻めを決定。家康の東征を機に,近江国佐和山城の石田三成が毛利輝元を総大将に家康打倒をめざし挙兵。石田方西軍は8月1日に伏見城を落し,11日大垣に入城,岐阜の織田秀信を陣営に組みいれた。下野国小山にいた家康は兵を返し,9月1日には江戸を出発。15日に両軍が関ケ原で激突した。一進一退の戦局は,小早川秀秋らの寝返りで東軍の勝利となった。ついで家康は佐和山城を落し,大坂城から毛利輝元を退去させた。10月1日,三成・小西行長・安国寺恵瓊(えけい)らを六条河原で処刑。戦後,家康の意図にもとづく大名配置が実施され,その権力は圧倒的なものとなった。天下分け目の戦ともいわれる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:関ケ原の戦(せきがはらのたたかい)

小西行長(こにしゆきなが)

生没 1558~1600.10.1 織豊期の武将。立佐(りゅうさ)の次男。弥九郎。日向守・摂津守。洗礼名アゴスチイノ。和泉国堺生れ。豊臣秀吉に仕え,1581年(天正9)に播磨国室津(むろのつ)を支配し,船奉行として各地に働き,85年には小豆島など2万俵を与えられた。四国・九州攻めに従い,88年肥後国宇土14万石を領した。女婿宗義智(よしとし)とともに対朝鮮交渉を命じられ,文禄の役では平壌まで進攻し,明との講和を画策した。交渉の末,秀吉の降表を偽作し秀吉の日本国王冊封という結果を得たが,96年(慶長元)大坂での講和が決裂したため,翌年慶長の役に出陣。関ケ原の戦では西軍として戦い,京で斬首。高山右近につぐ教会の保護者であった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

●出典
用語:小西行長(こにしゆきなが)

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