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インフォグラフィックで、もういちど読む山川世界史 Vol.06「古代民主政の完成」「ポリス社会の変質」

紀元前のギリシアで、現代につながる「民主主義」の源流がうまれました。その成り立ちや衰退のプロセス、現代との違いをみると、古代民主政は私たちの価値観と照らして、必ずしも理想のシステムと言えないことがわかります。

では、果たして現代の民主主義はもっとよいものにできないか? 小さなきっかけで、気づかぬうちに崩れ始めてしまうのではないか? 考えさせられる、古代ギリシア人たちのストーリーです。

まずは、貴族が独占していた政治に、なぜ市民が参加するようになったのか?民主政の基礎ができた前回のストーリーを簡単に振り返ります。

「古代民主政の完成」「ポリス社会の変質」

インフォグラフィック

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新 もういちど読む 山川世界史

古代民主政の完成

ペルシア撃退の主役となったアテネは,その後多数のポリスとともにペルシア軍の来襲にそなえてデロス同盟を組織し,その盟主におされたが,しだいに加盟諸ポリスへの支配を強め,東地中海一帯に力をふるった(アテネ帝国)。他方,国内では軍船の漕ぎ手としてペルシア戦争に活躍した下層市民の発言力が増して,前5世紀なかばペリクレスの指導のもとに民主政が完成した。

すべての成年男性市民の総会である民会が政治の決定機関で,わずかの例外をのぞき役職も抽選にもとづき全市民に開放され,裁判も多数の市民からなる法廷でおこなわれた。こうしたアテネの民主政は「民主主義」という考え方をうみだすこととなった点で,世界史的な意義をもっている。しかし女性に参政権がなく,奴隷の大量の使役がみられるなど,時代的な限界もあった。

『新 もういちど読む 山川世界史』(2017年、山川出版社)P.25〜26

ポリス社会の変質

前5世紀後半,ギリシア世界の主導権をめぐってアテネとスパルタとのあいだにペロポネソス戦争(前431~前404年)がおこった。ギリシアを二分したこの戦争はスパルタ側の勝利におわったが,戦禍が諸ポリスにおよぼした影響はきわめて深刻であった。アテネは前4世紀初め,すぐに国力を回復したものの,ポリスの存在を第一としてきた市民たちの考え方に動揺がおこり,ポリス民主政は精神的なささえを失ってしだいに形式化していった。スパルタのこうむった社会的変動も大きく,貨幣経済の浸透により土地を失う市民が続出して国力がおとろえ,前4世紀の前半にはテーベに敗れてギリシア世界の指導者の地位からしりぞいた。このころ対立と抗争を続けるポリスのあいだに傭兵の使用が広まり,市民が同時に戦士であるというポリス本来のあり方にも変化がきざしていた。

『新 もういちど読む 山川世界史』(2017年、山川出版社)P.27

コラム:ギリシアの民主政

古代ギリシアがうみだしたもののなかで、今日もっとも大きな影響を有しているのは、民主政という政治形態である。古代民主政について、今日の民主政治とのちがいを知っておくことは重要である。小規模な国家における直接民主政であったこと、女性や在留外国人に参政権がなかったことなどはよく知られている。

しかし、ギリシアの民主政と現代のそれとのちがいは、それのみでなく、たとえば、市民の最高決議機関とされるアテネの民会では、あらかじめ抽選で選ばれた任期1年の五百人評議会での審議を経て決議をおこなう慣わしであった。また、アテネでは民衆裁判所が一般の争い事を処理するだけでなく、民会決議が違法か否かについても審議するなど、ひじょうに重要な役割を担ったが、その構成員は、抽選で選ばれた任期1年の6000人の審判人で、事件の性格に応じ特定の人数から成る個別法定がそのつど設けられた。さらに民主政社会を動かす行政職も、すべて市民の抽選で選ばれた。任期は1年で、原則として同じ職に10人の同僚がおり、特定の人物が長い期間にわたって職務権限をもつことを不可能としていた。このようにアテネの民主政は、独立の「自由」な国家において、市民の政治的な「平等」を徹底的に追求した精度であった。

もっとも、軍事の最高公職である「将軍」職は、抽選ではなく民会の選挙で選ばれ、重任が可能だったので、かのペリクレスはこの職に連年選ばれることをつうじて政治指導力を保持した。史家トゥキュディデスは、民主政のアテネはじつはペリクレス個人の支配下にあった、と評している。

『新 もういちど読む 山川世界史』(2017年、山川出版社)P.25

コラム:奴隷制度

オリエントでは、おもに王宮や神殿が奴隷を所有していたが、前5〜前4世紀のギリシアや前3〜前2世紀のローマは、社会全般に奴隷が労働力として使われ、一般市民も奴隷を所有したことから、奴隷制社会の典型とされている。

興味深いのは「万物の尺度は人間である」として相対主義を主張したソフィストたちが「奴隷制は人間性に反する」として奴隷制度を批判したのに対し、偉大な哲学者として知られるアリストテレスは「奴隷は一種の生命ある所有物であり、すべて下僕というのは道具に先立つ道具といったものだ」(「政治学」)として奴隷制を擁護していることである。

ギリシアのポリスで奴隷とされたのは、まずもって戦争捕虜であったが、借財を返せないため自由な市民で奴隷にされるものもあらわれ、社会改革の糸口となった(ソロンの改革)。のちには奴隷市場もうまれ、奴隷購入の便宜がはかられた。奴隷の数が多かったのはアテネやコリントなどで、前5世紀のアテネでは、奴隷は総人口の3分の1に達し、農業や手工業に従事し、主人によって賃貸されたり、また独立して手工業を営んで主人に貢納金を納めたりした。

ポリスの民主政治やその文化は、奴隷労働によってうみだされた余暇のうえに開花したものであった。スパルタの場合は、先住民族を征服してヘロットと呼ばれる奴隷身分の農民とした。スパルタが軍国主義体制を維持した背景には、この多数のヘロットの存在への危機感があった。

ローマの場合は、通常の家内奴隷ほか剣闘士といった生死をかけた見世物にされたケース、さらにシチリアやイタリア半島ではラティフンディア(大農場経営)において過酷な農業労働に従事させられるケース、高度な知的労働、たとえば教師や会計士、医師などの仕事に従事するケースなどがあった。

一般的に古代ローマの奴隷所有者は、善意をふくめたさまざまな理由によって奴隷を開放するのに前向きで、帝政時代の全人口のおよそ5%を解放奴隷が占めていたといわれる。3世紀以降になると、もともとシチリアやイタリア半島以外の地域では、小作人を用いた農業が早くから広範囲におこなわれていたこともあって、イタリアの大農場でも奴隷制から小作制に切りかえられた。

『新 もういちど読む 山川世界史』(2017年、山川出版社)P.30

用語

ペリクレス

Perikles 前495頃~前429 古代ギリシアの最も優れた政治家の一人で,ポリス民主政の完成者。名門に生まれ,哲学者アナクサゴラスと親交を結んだ。前462年エフィアルテスと謀りアレオパゴス評議会の実権を奪って,これを五百人評議会と民衆法廷に移し,アテネの民主化を制度上,完成させた。またアテネの対外支配を推し進め,その一環としてデロス同盟の資金をアテネに移し,それを流用してアクロポリスをパルテノン以下の建築で飾った。前443年政敵を陶片追放で追って以後,民衆を完全に一人で指導し,「ペリクレス時代」を実現した。ペロポネソス戦争には,その雄弁により農民を説得して籠城策をとったが,市内の悪疫流行の犠牲となって病没。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

ペルシア戦争

前500年から前449年にわたるギリシア人とアケメネス朝ペルシアとの抗争で,世界史上の戦争で最も意義深いものの一つ。前500年に起こったイオニア植民市のペルシアへの反抗はやがて鎮圧されたが,アテネなどがこれを応援したために,ペルシアのギリシア本土への復讐の大遠征を招いた。前492年にトラキア征服を行ったのち,前490年ペルシアの大軍が海路アッティカのマラトンに上陸したが,ミルティアデスの率いるアテネ軍のために大敗した。前480年ペルシア王クセルクセスは,みずから大軍を率いてギリシアに侵入,テルモピュレーの戦いに勝ったものの,サラミスの海戦に大敗し,陸軍はその翌年プラタイアイの戦いで敗れ,遠征は完全に失敗した。前449年ペリクレスがペルシアと和約を結び,イオニアの独立を認めさせて半世紀の抗争を終わらせた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

ペロポネソス戦争

Peloponnesos 前431年から前404年にかけて,アテネとスパルタおよびそれらの同盟市の間で行われた大戦争で,ギリシア本土の衰退に重大な影響を及ぼした。初めの6年はスパルタ軍が毎年アッティカに侵入した。前425年アテネ軍がメッセニアのピュロスを占領してスパルタを脅かしたが,アテネの主戦派のクレオンが前422年に戦死してから和平の機運が動き,前421年ニキアスの和となった。しかしやがてまた開戦となり,アテネは前415~前413年,無謀なシチリア遠征に惨敗して海軍力を失い,スパルタはさらにペルシアの援助を得て海上でこれに追い討ちをかけた。前405年アイゴスポタモイの戦いに敗れたアテネは,海上から封鎖されて翌年降伏した。デロス同盟はすでにこれまでに崩壊していた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

マケドニア

Makedonija[マケドニア],Makedonia[ギリシア],Macedonia[英] ・〔古代〕ヘラスの北,トラキアの西に広がる一地域。ヘラスに侵入したドーリア人の一派が,前1100年頃ここに入って,マケドニア人の中核となり,アルガイダイまたはテメニダイと呼ばれる王家が支配した。ペルシア戦争時代からギリシア史に登場し,フィリポス2世の時代,前338年にヘラスを屈服させた。その子アレクサンドロス大王はアケメネス朝ペルシアを征服したが,彼の死後その遺領は分裂し,マケドニアにはアンティゴノス1世の開いたアンティゴノス朝が前276年に確立した。しかしこの王朝は前168年ピュドナの戦いの敗北により7代で滅亡し,前148年マケドニアはローマの属州となった。・〔近現代〕1991年に旧ユーゴスラヴィアから独立した共和国。首都はスコピエ。アレクサンドロス大王の古代マケドニア王国の広大な領域の中心部分のみが,近代ではマケドニアととらえられる。6世紀後半に南スラヴ族がこの地域に定住。ビザンツ帝国,ブルガリア帝国,中世セルビア王国の支配を受け,15世紀にはオスマン帝国の統治下に置かれた。19世紀に入り,近隣のバルカン諸国がオスマン帝国から独立や自治を獲得するなかで,マケドニア地域は依然としてオスマン支配を受けた。しかもコソヴォ,ビトラ,テッサロニキの3ヴィラーエト(州)に行政区分されており,民族構成の多様なマケドニア住民の帰属意識は不分明であった。そのため,近隣のギリシア,ブルガリア,セルビアとヨーロッパ列強の利害が絡み,マケドニア問題が先鋭化した。1913年の第2次バルカン戦争で,マケドニアは戦勝国のギリシア,セルビアと敗戦国のブルガリアの3国で分割された。第一次世界大戦後,セルビア領マケドニアはユーゴスラヴィア王国の領域に組み込まれ,第二次世界大戦後の社会主義ユーゴスラヴィア連邦のもとで一共和国となり,マケドニア語とマケドニア文化の確立が図られた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

出典・参考文献

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