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【特別企画】4コマで「カルロス・ゴーン」〜日産に至るまでの道のりとは?〜

衝撃とともに世界を駆けめぐった「カルロス・ゴーン逮捕」のニュース。日本を含め5カ国の文化に深く関わったゴーンの足跡を、駆け足で振り返ります。

4コマで「カルロス・ゴーン」

日産の経営者としてのカルロス・ゴーンは、読者の皆さんもご存知の通り。ここでは、日産に来る前、ゴーンが歩んだ人生を、その時代背景とともにまとめます。

gohsn.pngブラジルはヴァルガス体制下の「ポプリズモ時代」。ゴーンは、レバノンをルーツとする両親の元、アマゾン流域の街に生まれました。
2歳のとき、井戸水をそのまま飲んでしまい、生死をさまよいます。療養のため、気候のよいリオデジャネイロへ移住しましたが…。

gohsn2.pngさらによい環境を求めたゴーンの家族は、「中東のパリ」と呼ばれた美しき首都・ベイルートへ。イエズス会系の一貫教育校へ入学しますが、教師のラグロヴォール神父から特に多くを学んだようです。
レバノンは1975年から内戦が始まり、首都も荒廃しますが、ゴーン自身は戦争を体験していません。

gohsn3.pngゴーンがフランスで過ごした1970年代には、2度の石油危機(オイルショック)が起こるなど、世界経済が混乱しました。ゴーンはミシュランに入社3年目で工場長に抜擢されるなど、順調にキャリアを重ねました。

gohsn4.png1989年は、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、冷戦終結と、歴史の大事件が続いた年です。

また、日本では昭和天皇が崩御しました。つまり、平成のはじめに「コストカッター」としてのカルロス・ゴーンが生まれ、平成の最後に大きな岐路に立たされていることになります。

この後、ゴーンは18年間つとめたミシュランからルノーへ移籍(1996年)。1999年に日産のCOOとして日本へやってくることになります。

参考文献

『カルロス・ゴーン 国境、組織、すべての枠を超える生き方 (私の履歴書)』カルロス・ゴーン(著)、2018年、日本経済新聞出版社

『ルネッサンス ― 再生への挑戦』カルロス・ゴーン(著)、2001年、ダイヤモンド社

『ゴーン家の家訓』リタ・ゴーン(著)、2006年、集英社

ヴァルガス

1883~1954。
ブラジルの大統領(在任1930~45,51~54)。1922年下院議員に選出され,以後蔵相,州知事を歴任。30年の大統領選における不正を訴えて武装蜂起し,軍の支持を得て大統領に就任した。37年には議会を閉鎖し,政党活動を禁止する上からのクーデタを敢行し,「新国家体制」の名のもとに37年憲法を制定して独裁体制をしいた。この新体制は工業化のためのインフラ整備,国営製鉄所建設に力を入れ,労働者保護立法,内陸部開発をめざした。新体制は45年のクーデタで崩壊したが,51年大統領に返り咲いた。石油公社の創設など民族主義政策は維持されたが,軍部の支持を失って苦境に陥り,自殺した。ヴァルガス体制は青年将校を中核に,労働者,中間階級を政治動員するポピュリズム政治の典型であった。

山川 世界史小辞典(改訂新版)、78ページ、2004年、山川出版社

ベイルート

レバノンの首都。もともとはフェニキア人の都市。19世紀以降,レバノンの政治,経済の中心であるのみならず,アラブの文化的中心地となるが,1975年からのレバノン内戦で荒廃。現在は復興の途中。

山川 世界史小辞典(改訂新版)、620ページ、2004年、山川出版社

石油危機(オイルショック)

〔第1次〕1973年10月,第4次中東戦争を契機としてアラブ産油国がとったイスラエル寄りの国々への石油禁輸という政治的戦略と石油輸出国機構(OPEC)による原油価格の大幅引上げとによってもたらされた世界経済の混乱。石油輸入国の西側先進諸国は,石油の対外依存に由来する経済的脆弱性を安全保障上の問題として認識するようになった。

〔第2次〕1979年,大産油国であるイランに革命が起き,石油の供給不安と価格の高騰をもたらした。80年代初頭には,石油価格は史上最高となり,世界経済は再び混乱した。

山川 世界史小辞典(改訂新版)、370ページ、2004年、山川出版社

ジスカールデスタン

1926~。
フランスの中道右派の政治家。1962~66年に蔵相,1974~81年に大統領となり,ド・ゴール派と一線を画し,妊娠中絶の合法化や離婚の自由化などの改革を行う。先進国首脳会議を提唱し,英米やアラブ世界との協調に努めるが,経済で失敗。

山川 世界史小辞典(改訂新版)、291ページ、2004年、山川出版社

天安門事件

中国,北京の天安門広場で起こった事件で,厳密にいえば,第1次と第2次がある。
〔第1次〕1976年4月,死去した周恩来(しゅうおんらい)首相の追悼のため天安門広場に集まった民衆の行動が抑えられ,人民を扇動したとして鄧小平(とうしょうへい)副首相が職務を解任された事件(別称四・五運動)。

〔第2次〕1989年6月4日民主化運動に結集した天安門広場の学生たちを戒厳軍が弾圧し,趙紫陽(ちょうしよう)党総書記が運動への甘い対応から解任された事件(別称六・四事件)。この事件は,87年に学生の民主化要求に寛容な姿勢を示して解任された胡耀邦(こようほう)元党総書記が89年4月に死去し,彼の名誉回復を求める学生のデモが契機となった。その後学生たちはハンストを含む過激な行動で当局に民主化を迫ったが,5月20日に北京の一部が戒厳令下に置かれ,6月4日に軍が広場に留まった学生を排除する際に流血の衝突が起こった。現在でもなお,6月4日未明に広場で何が起こったのか,死傷者は最終的に何人にのぼるのかなど,真相に不明な点が多い。

山川 世界史小辞典(改訂新版)、455ページ、2004年、山川出版社

ベルリンの壁

1961年8月13日,東ドイツ政府は突如ベルリン周囲と市内の東西境界線を遮断,特に東西間交通規制の抜け道になっていた市内の境界線には,その後5年間をかけて総延長約30キロに及ぶコンクリートの「壁」を構築した。89年11月9日開放され,その後撤去された。

山川 世界史小辞典(改訂新版)、635ページ、2004年、山川出版社

冷戦

第二次世界大戦後のアメリカとソ連との間に生じた緊張をさす言葉で,「戦闘のない敵対」を意味する。ソ連がドイツ敗北に乗じて東欧・中欧に自国の勢力圏を拡張したのに対して,アメリカが「封じ込め政策」をとったために緊張が生じた。冷戦はその性質上,開始と終了の時期は明確ではないが,通常1946年から47年にかけて始まったとされる。緊張緩和がみられた55年,63年,また72年に冷戦は終わったという見方があったが,いずれもあとで打ち消され,80年代初頭には「新冷戦」が始まったといわれた。89年に東欧の共産党支配体制の崩壊,「ベルリンの壁」の崩壊があり,91年にはソ連自体も解体したので,それ以後は89年をもって冷戦は終結したということがふつうになった。冷戦が第二次世界大戦直後から80年代末まで続いたと考えれば,その間には緊張が和らいだ時期もあったから,冷戦時代とは,政治・経済体制とそれを支えるイデオロギーとを異にするアメリカおよび西側諸国とソ連圏との対抗関係が,国際政治の基本的性格を形成していた時代だったと定義するのが適当である。冷戦は「長い平和の時代」だったという見方もあるが,62年のキューバ危機のように米ソ戦争の危険が切迫したときもあった。アジアではアメリカは共産主義勢力の武力による拡張を防ぐために局地戦争としては大きな戦争をしており,冷戦時代のアジアはヨーロッパと状況が異なっていた。また東アジアにはヨーロッパと違い,中ソという二つの共産主義大国があり,アメリカの同盟国もまとまりがなく,それぞれ個別的にアメリカと結びついていた。冷戦の時代,ソ連は軍事力ではアメリカに対抗できたが,その他の面では遠く及ばなかった。アメリカが経済先進国として復興した西ヨーロッパ,日本との同盟を維持したのに対して,ソ連は中国とも険悪な関係になり,中国は72年に西側との関係を改善した。ソ連がゴルバチョフ時代に冷戦からの転換を志向したのも,米ソの力の格差と自国の国際的孤立のためである。

山川 世界史小辞典(改訂新版)、761ページ、2004年、山川出版社

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