4コマで「醜名(四股名)」

大相撲の力士は、醜名(シコナ)を名乗っています。先日、引退を決意した稀勢の里も同様です。でも、そもそも本名ではなく、なぜシコナを名乗る力士がいるのでしょうか?そして、いつ頃からシコナは使われ始めたのでしょうか?

4コマで「醜名(四股名)」

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醜名(四股名)

四股名とも。相撲力士の名乗。相撲力士が本名以外の名乗で相撲を勤めた史料上の所見は,中世末期に諸国を巡業した相撲人の,稲妻・辻風などの名乗にまでさかのぼる。近世の勧進相撲興行では,醜名として自然現象や郷土の山・川の名などを名のる慣例が定着し,それが現代の大相撲興行にまで継承されている。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、425ページ、2016年、山川出版社

勧進相撲

勧進を名目に掲げた相撲興行。寺社や道・橋などの造営・修復の費用を調達するために喜捨を募ることを勧進という。鎌倉末期以降は,能・猿楽などの芸能興行による収益をあてる勧進興行が広く行われた。相撲も芸能の一つとして,15世紀初めから勧進興行が行われ,職業的な相撲人集団の活躍の場となった。近世には,江戸・京・大坂の三都を中心に盛んとなり,営利目的の興行も行われるようになった。幕府は当初は,風紀統制の意図もあり,そうした興行には抑制的で,しばしば勧進相撲禁令を発したが,18世紀半ばには三都で四季1度ずつの営利興行が公認され定着した。現代の大相撲興行はこの系譜につながる。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、214ページ、2016年、山川出版社

国技館

日本相撲協会が維持・管理する常設相撲場。日露戦争後,梅ケ谷・常陸山両横綱の対戦が人気をよび,ナショナリズム高揚の気運にものって相撲興行は好況を呈した。その機にあわせ大日本相撲協会は,天候に左右されていた興行を安定させるため,東京両国の回向院境内に常設館を建設。1909年(明治42)6月に開館し,国技館と命名した。以後,相撲はひろく国技と称されるようになった。失火や関東大震災による焼失・再建をへて,第2次大戦後占領軍に接収された。1950〜84年(昭和25〜59)には浅草の蔵前国技館が使用され,85年1月,新たに両国国技館が開館した。

山川 日本史小辞典(改訂新版)、341ページ、2016年、山川出版社

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