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日本サッカーの挑戦 伝来、そして世界へ

日本代表が初めてワールドカップのピッチに立った日から20 年。日本にとってロシア大会は6 回目のワールドカップ本大会への挑戦だった。日本がワールドカップに出場するまでには、どのような経緯をたどって来たのだろうか?日本とサッカーの出会い、そして日本サッカーの世界への挑戦をみていく。『2018▶2019 エピソードで読む世界の国243』(山川出版社、2018年)から特別に記事を公開(一部編集)します。

日本伝来は野球と同時期

日本にサッカーを最初に紹介したのは、1873 年(明治6)に軍事指導のために来日したイギリス海軍の教官団というのが定説になっており、海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)の生徒に余暇として教えたのが始まりとされている。イングランドで統一ルールが確立されてから約10 年後、野球の伝来(1872年)とほぼ同時期のことである。その後、当時の教員養成校である師範学校の教科やクラブ活動に導入されたことが素地となって、卒業生が赴任先でサッカーを紹介したことで普及が進んだ。
日本を代表する形で出場したチームが初めて戦った国際試合は、1917 年に東京で開催された第3回極東選手権競技大会である。出場したのは東京高等師範学校で、15 〜16 歳の現役生と卒業生の混成チームだった。中華民国に0-5、フィリピンに2-15 と大敗したものの、東京・芝浦の会場では3 万人もの人々が試合を見守ったという。この翌年に、全国高等学校サッカー選手権大会の前身である「日本フートボール大会」など、関西、関東、東海で、ほぼ同時にサッカー大会が始まったこととあわせ、すでにこの時期、学生を中心にサッカーが日本各地に広がりを見せていたことがうかがえる。

協会設立と国際試合初勝利

1921 年(大正10)、国内でのサッカーの普及を背景に、イギリス大使館の助言と助力を得て、日本サッカー協会(JFA)の前身、「大日本蹴球協会」が設立。同年には、現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会の第1回大会となる「ア式蹴球全国優勝競技会」も開催された。すでにこの頃には、現在と同じ選抜形式の代表チームが編成されており、初の国際A マッチは、1923 年の第6 回極東選手権、対中華民国だった(1-5 で敗戦)。その後日本は、1927 年の第8 回大会では、A マッチ初勝利(フィリピン戦、2-1)をあげ、1930 年の第9 回大会で、念願の国際大会初優勝を成し遂げた(中華民国との両国優勝)。

この時期の日本サッカー成長を語る上で欠かせない人物がいる。イギリス領ビルマからの留学生、チョウ・ディンである。彼は偶然の出会いから、早稲田高等学院サッカー部の指導を行い、同校を全国大会2 連覇の強豪に育て上げた人物である。この偉業によって各地から指導依頼が舞い込み、彼は全国を巡回して基本技術、戦術、理論を伝授して回り、指導書の執筆まで行っている。チョウ・ディンが教えたのは、スコットランド人から学んだ〝ショート・パスサッカー〟で、これは現在も日本人が好むスタイルである。

世界への挑戦と銅メダル

1929 年(昭和4)、大日本蹴球協会はFIFA への加盟を認められ、本格的に世界を目指し始めた。最初に機会が訪れたのは1936 年のベルリンオリンピックであった。日本は初戦こそイタリアに0-8 と大敗したものの、続く第2 戦で、優勝候補のスウェーデンを3-2 で逆転勝利を飾るという世紀の番狂わせを演じた。この勝利は〝ベルリンの奇跡〟として今も語り草となっている。日本は1950 年、第二次世界大戦時にFIFA から受けた資格停止処分が解け、再び世界を目指すこととなったが、不意に世界大会への出場権を得る。1964 年のオリンピック開催地が東京に決定し、地域予選が免除されることになったのである。不意に訪れたチャンスだったが、当時の実力では惨敗は必至。
そこで日本蹴球協会(1947 年改称)は、初の外国人指導者招聘を決断。20 歳以下の西ドイツ代表監督を務めた経験を持つデットマール・クラマーに白羽の矢を立てた。クラマーの指導は基本技術の反復から始まった。しかし弱小国とはいえ、選手は実業団や大学から選抜されたエリートぞろいで、当然、不満も出た。しかしクラマーは、代表選手の誰よりもハイレベルな手本を示すことで彼らに力不足を自覚させ、また時には武芸の心得である「残心(動作を終えても緊張を持続する)」という概念を用いて心構えを説くなど、日本人の心の機微も突きながら、選手たちを納得させていった。そして迎えた東京オリンピックでは、強豪アルゼンチンを相手に番狂わせを演じて世界を驚かせただけでなく、ベスト8 という過去最高の成績で大会を終えた。クラマーは技術や戦術だけではなく、最先端のコーチング理論や組織論をももたらした。それらは日本サッカー近代化の基盤そのものとなり、彼は後に〝日本サッカーの父〟と呼ばれるようになる。
またクラマーは、数々の提言も残している。そのうち彼の帰国翌年(1965 年)に実現したのが、初の全国リーグ「日本サッカーリーグ(JSL)」の創設である。効果はてきめんだった。社会人(実業団)チームと大学チームとで拮抗状態にあった勢力図が、社会人優位に変わり始めたのである。これは日本リーグでの厳しい戦いによって、社会人チームがレベルアップしたことの証明でもあった。こうした地殻変動が起こる中で、日本サッカー界が打ち立てた金字塔が、メキシコオリンピック(1968 年)での銅メダル獲得だった。

"冬の時代"からプロ化へ

この快挙によって日本リーグは活況を呈し、日本の得点源となった釜本邦茂、杉山隆一のもとにはヨーロッパや南米のクラブからのオファーも舞い込んだ。日本サッカー界の未来は順風満帆に見えた。しかしメキシコ五輪を最後に、ワールドカップはおろか、五輪でもアジアの壁を突破できず、日本は1996 年(平成8)のアトランタオリンピックまで28 年間にわたって、世界の舞台から遠ざかる。
一方で、世界を身近に感じる話題もあった。1977 年、奥寺康彦(古河電工)が、ヨーロッパ三大リーグの一つ、ブンデスリーガ(西ドイツ)の名門「1. F C ケルン」に移籍したことである。奥寺は西ドイツで10 シーズンプレーし、うち9シーズンはレギュラー選手として活躍。現地では〝東洋のコンピュータ〟の異名をとった。1986 年、奥寺は古巣に戻って現役生活を終えるために帰国するが、これが日本サッカーのプロ化を促す大きな転換点となる。日本サッカー協会(1947 年改称)が奥寺の日本復帰に合わせて、アマチュアを前提とした規約を改定し「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」というカテゴリーを新設。従来禁止していたプロ契約の容認に踏み切ったのである。
また同じ年に行われたメキシコワールドカップアジア最終予選で、韓国に連敗を喫し、あと一歩のところで本大会出場を逃したこともプロ化への機運を醸成した。韓国では1983 年から国内リーグのプロ化が進められていた。

ワールドカップへの挑戦

そして1993 年(平成5)に、日本プロサッカーリーグ(J リーグ)が発足。草創期にはブラジルのジーコ(鹿島)、ドイツのリトバルスキー(市原)など多くの世界的スター選手がプレー。彼らビッグネームは、観客動員だけでなく、クラブや選手のレベルアップ、プロフェッショナリズムの定着など、日本サッカーの近代化に大きな足跡を残した。

J リーグ発足の半年後、わずか1 点の差でワールドカップ本大会(1994 年アメリカ大会)を逃す予選敗退劇「ドーハの悲劇」が起こり、関係者は一様にJ リーグへの影響を懸念した。しかし関心はむしろ高まり、これが1998 年のワールドカップ本大会初出場へとつながっていった。さらに2002 年には、韓国と共同でワールドカップ本大会のホストを務め、4 回目の出場となった2010 年南アフリカ大会では、中立地開催で初めてとなるベスト16 入りを果たす。この間、選手の海外移籍も珍しいことではなくなり、マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) や、インテルナツィオナーレ・ミラノ(=インテル、イタリア)など、世界的ビッグクラブと契約する選手も輩出した。

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