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【歴史の転換期 Vol.2】ローマ帝国は如何にして誕生し、帝国へ向かったのか

「人が驚くようなアイディアを思いつきたい」と一度は考えたことがある人は少なくないのではないでしょうか?今回ご紹介する1章「変わりゆく地中海」では、そんな奇抜な発想でローマに攻め込んだ人物と、それを阻んだ人物が登場します。ローマが如何にして各地に領域を広げ、帝国に組み入れていったか、その転換の様子を、今のスペイン・ポルトガルであるイベリア半島を中心に見ていきましょう。


大帝国の影響と価値

古代の歴史の中で大帝国はさまざまありましたが、世界的規模で展開した大帝国は、西のローマ帝国と東の漢帝国でしょう。この2つの帝国が同じ時期に成立したということは非常に意義のあることで、世界史の転換を考える上で第一に注目しました。どちらの帝国も、広大な領域支配・強力な軍事力という点でも群を抜いています。また、それだけではなく、統治機構・政治理念・度量衡の統一など、高度なシステムが構築され、それが後世の大国家の規範となった点は、更に注目すべきポイントです。

弱冠26歳で軍司令官となったハンニバル

B.C.220年、地中海の向こう側アフリカ大陸の都市国家カルタゴでは、ハンニバルが26歳の若さで軍司令官に任命されました。彼は「アルプスを越えローマを攻めよう」という突飛なアイディアを思いつきます。このアイディアは、その後のイベリア半島の歴史を決定づけてしまったといっても過言ではないものでした。
当時の地中海世界は、沿岸に点在する国家が互いに対立したり同盟を組んだりしながら存在していました。それぞれは、勢力を錯綜させながらも、ゆるやかに調和していました。東側半分はギリシア人の都市国家や在地の諸王国が勢力を握っており、西半分のアフリカ沿岸部・シチリア・イベリア半島あたりはカルタゴが優勢を保っていました。
この地中海の制海権を奪い取りたい新興国ローマとカルタゴがシチリアをめぐって衝突したのがB.C.264241年に起きた第1次ポエニ戦争です。この戦いに負け、シチリアを失ったカルタゴは、ローマ軍がシチリア経由でカルタゴ本土へ攻め入ってくる前に、ローマをなんとしても叩きたかった。この状況でカルタゴの軍司令官ハンニバルは、今のスペインとフランスを経由してアルプスを越え、背後からローマに進軍するといった大胆な戦略を選択します。

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地政学上のポイントをおさえたローマ軍

対するローマの将軍スキピオ(のちにカルタゴを破る大スキピオの父です)は、ローマに進軍してくるハンニバル軍にB.C.218年に宣戦布告します。すでにハンニバルはイベリア半島を通過しているにもかかわらず、兄をイベリア半島へ向かわせます。ハンニバルの輜重(武器・食糧・兵隊など)補給路を断つという戦略です。戦略には地政学上の重要性に目を向けることは大切ですが、古代でも同じでした。つまり、イベリア半島へのローマ軍の進出は、半島を支配しようということではなく、最終的にハンニバル軍に勝利するために必要な戦略だったのです。

現地協力者を見出すことの重要性

スキピオが取り組まなければならなかったのは、現地住民の中に協力者を見出すことでした。イベリア半島には元々、イベリア人、ケルトイベリア人、ルシタニア人など先住の人々がいました。こうした人々は多くの部族に分れて、友好関係をもったり対立したりしていました。それぞれの部族は、カルタゴとローマの間で部族としての利益を護り、危機を回避するのに必死でした。協力するといっては寝返ったり、そこは一朝一夕にはうまくいきません。

当初はカルタゴ軍が優勢で、父スキピオはこの地で戦死します。代わって着任した息子スキピオは、先住民と友好的に同盟を結んだり、力で服属させたりしながら、2年後にはカルタゴ勢力を押し返します。そして、B.C.206年に、ついに12年に及ぶイベリア半島での戦いに勝利しました。勝利を決したのは、先住の各部族とどう向き合うか、考え行動する才能だったといえるでしょう。それを読み間違えると破滅を招くことになるわけです。

現地の部族争いの仲介をしつつ権力を行使するローマ軍

カルタゴに勝利したからといって、すぐにイベリア半島を支配できるわけではありません。ここに勢力基盤を置くにはどうしたら良いでしょうか。
息子スキピオが利用したのは部族同士の争いでした。ローマ人は「イベリア半島の平和維持はローマが責任を負う」という自負のもと、部族同士の諍いを「反乱」と見て、それを鎮圧する行動に出ました。まるで現在のどこかの国のようですね。
反乱鎮圧のために、B.C.197年、ローマはキテリオル・ウルテリオルという2つの属州を置きました。キテリオルはおもにケルトイベリア人の地、ウルテリオルはルシタニア人の地でした。たくさんの部族勢力が複雑に絡み合っているので、ローマは誰に対し何をどう行えば半島から「反乱」を一掃し安定した統治ができるか、とても悩んだことでしょう。

法によるシステムの構築

B.C.180年、のちに「グラックス兄弟の改革」で有名な兄弟の父グラックスが、11つの部族とある「条約」を結んでいきました。それは先住民のための新たな居住地を建設し、土地を分配し、彼らがその居住地を防備することを認めるという先住民に配慮したものでした。一方で、毎年税を徴収し、ローマへの軍役も課しました。ローマは、将軍たちの恣意的な方法でなく、ルールに従って先住民に対処することにしたのです。すると先住民は「ローマ人の友」として平和的にローマの執政官に従いました。これにより約30年間は比較的安定した時期を迎えることが出来ました。

搾取・圧政への抵抗

平和的な統治が続くと、どのようなことが次に起こると思いますか。これも良く歴史に見られるパターンですが、ここでも支配者による搾取・圧政が見られるようになりました。
B.C.150年代以降、今まで以上に熾烈な先住民とローマ人との戦いが繰り広げられました。なかでもルシタニア戦争(B.C.155139)とケルトイベリア戦争のヌマンティア包囲戦B.C.153133)が有名です。ルシタニア戦争ではルシタニアの英雄ウィリアトゥスが活躍し、最後までローマへの抵抗を続けましたが、側近の裏切りで暗殺されてしまいます。この場面はのちの美術作品の題材にも多く取り上げられ(写真参照)、ウィリアトゥスは今でもポルトガルの英雄と謳われています。ヌマンティアの包囲戦では、6万人のローマ軍により8ヶ月間包囲された4000人のケルトイベリア人が、飢えに苦しめられ、降伏を余儀なくされ、ヌマンティアは焼き払われたといいます。

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ローマによる支配はイベリア半島にどのような変化をもたらしたのか

なぜここまで熾烈な戦いだったのかというと、さまざまな要因が重なった末の結果でした。「属州とはかくあるべき」という思いが強くなる一方、各地で戦う将軍は戦功をあげることに血道をあげ、戦いは熾烈さを増しました。
B.C.Cに入ってもこの反乱は続き、イベリア半島を完全に支配するのはローマが共和政から帝政に移行した後です。ローマ皇帝によるその後の支配は、セゴヴィアの水道橋などにも見られるように、自らの領土としてその開発と整備に尽力し、これは先住の人々にも受け入れられました。
また、ローマ支配下の属州民でもエリートの中にはローマ市民権を得て、政界に進出するものも現れました。さらにはトラヤヌス帝やハドリアヌス帝のようなイベリア出身の皇帝までも輩出し、帝国に逆らうような勢力はなくなり、ローマ帝国でもっとも繁栄した属州に変化をもたらしていきました。
更に詳しい内容については、こちらをご覧ください。

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編集部オススメの「こんな本を一緒に読むと面白い」

ハンニバル.pngキャビン・デ・ビーア『ハンニバルの像』博品社
 自然学者の作者が、ハンニバルの象軍団が、アルプスをどのルートで越えていったか、あらゆる仮定と綿密な調査でその謎に挑む。

シリーズ:歴史の転換期

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