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サッカーと戦争 スポーツの枠を超えた存在感と影響力

スポーツの枠を超えた存在感と影響力の大きさゆえ、ワールドカップ、ひいてはサッカーという競技は、時として、良くも悪くも国際関係に影響を与えたり、また影響を受けたりもします。過去にサッカーは、どんな影響を受けたのでしょうか?また、政治的対立を抱える選手同士はどんな関係なのでしょうか?『2018▶2019 エピソードで読む世界の国243』(山川出版社、2018年)から特別に記事を公開(一部編集)します。

"代理戦争"と"因縁の対決"

影響を受ける例としては、外交上の対立をサッカーによる〝代理戦争〟に見立てた〝因縁の対決〟と呼ばれる対戦カードがある。

FalklandsWar.jpg.jpg特に有名なのが、1982 年(昭和57)に南大西洋で勃発したフォークランド紛争の当事者であるアルゼンチンとイングランドのマッチアップである。紛争後の初対戦は1986 年のメキシコ大会。この試合では〝神の子〟ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)による〝神の手ゴール〟や〝5 人抜きゴール〟によって、アルゼンチンが勝利を収めた。もっとも、この両者の間には、こんな逸話がある。紛争当時、イングランドの強豪クラブ「トッテナム・ホットスパー」に、あるアルゼンチン代表選手が所属していた。イングランドは、ただでさえ〝フーリガン〟と呼ばれる過激なサポーターがトラブルを起こす土地柄で、〝敵国〟の選手に憎悪が向けられることは避けられないと思われていた。しかしスタジアムで彼に対して向けられたのは、こんな冗談交じりの愛情と友情だった。

 「君がチームにいてくれるなら、フォークランドはくれてやる」

実のところ、サッカー界における両国の関係は、周囲が思うほど険悪ではない。事実、紛争後も強豪同士としてのライバル関係を大きく逸脱することはなかった。

政治対立を超える友情

1998 年(平成10)フランス大会では、1979 年(昭和54)のイラン・イスラム革命を契機に急速に関係が悪化したアメリカとイランが対戦。こちらも政治的対立を理由に注目された。当時は、核開発問題を理由にアメリカがイランに対して経済制裁を発動していた最中で、両国の関係が極度に悪化していた時期だった。関係者の間からも「険悪なムードになるのは避けられない」との懸念の声が上がっていた。しかし実際は違った。試合前、両国の選手たちは互いに花束を交換し、通常行われるチームごとの写真撮影に加えて、両チームの選手が互い違いに並び、肩を組んで写真に収まる時間を設けた。残念ながら、ワールドカップそのものに対する関心が低かった当時のアメリカではあまり話題にはならなかったが、FIFA(国際サッカー連盟)は、両チームの行動に対して、「FIFA フェアプレー賞」を贈り称賛した。

また、過去の不幸な歴史が国同士の関係に影を落としがちな日本と韓国も、こうした国々同様、サッカー以外の対立軸がしばしば語られることがある。もっとも、隣国同士として互いに強いライバル意識を持っていることは確かだが、両国の選手が日韓はもちろん、ヨーロッパのクラブでもチームメイトとしてプレーする現在、彼らの関係は、両国政府のそれに比べ、はるかに友好的であるといっていい。

"サッカー戦争"という悲劇

ただ一方で、図らずもサッカーが実際の国際関係に影響を与えてしまった不幸な例もある。


とりわけ悲劇的だったのが、ホンジュラスとエルサルバドルの間で起こった「サッカー戦争」とも呼ばれる武力紛争である。隣接する両国は、もともと国境線、貿易、移民など、さまざまな分野で対立していた。こうした中、1969 年6 月に行われた1970 年メキシコ大会の北中米カリブ海地区予選で、ホンジュラスとエルサルバドルが対戦する。ちなみに、北中米カリブ海地区の出場枠は、同地区の強豪であるメキシコが開催国特権で地区予選を免除されていたため、事実上1 枠増える格好となっていた。同地区の中堅国だったホンジュラスとエルサルバドルにとっては、滅多にないチャンスが巡ってきたわけである。ホーム・アンド・アウエーの2 試合で互角に終わった後、中立地でプレーオフが行われ、エルサルバドルが勝利。これによってホンジュラスの予選敗退が決定する。
するとその直後に、ホンジュラスでエルサルバドル移民への大規模な襲撃事件が発生。事件の背景に予選敗退へのいら立ちがあったことは明らかで、これを受けてエルサルバドル政府はホンジュラスに国交断絶を通告。その後、武力衝突に至るという最悪の結果を迎えてしまったのである。

紛争に翻弄された名手たち

サッカーの試合が武力紛争の要因になることは稀だが、1942 年(昭和17)、1946 年の本大会が、第二次世界大戦の影響によって中止されたように、戦争の影響によって選手たちが機会を奪われることは、しばしば起こる。近年では、〝東欧のブラジル〟と称されるほどの技巧派の強豪でありながら、国連の制裁によって国際試合への参加を禁止された旧ユーゴスラビアの例がある。制裁は民族間対立による独立運動に端を発するユーゴスラビア紛争(1991 ~1999 年)を受けてのもので、1992 年から約2 年半続いた制裁によって、同国は1994 年アメリカ大会の地区予選にすら出場することができなかった。当時、ユーゴスラビアの中心選手だったドラガン・ストイコビッチは「スポーツと政治は分けて考えるべきだ」と、制裁の範囲がスポーツにまで及んだことを批判した。〝ピクシー〟の愛称で知られ、日本の名古屋グランパスエイトでもプレーした世界的名手である。

1998 年のフランス大会。ストイコビッチは、2 大会ぶりにワールドカップのピッチを踏んだ。33 歳、選手としての全盛期はすでに過ぎ去っていたが、彼は新ユーゴスラビア代表の主将としてチームをベスト16 に導いた。フランス大会には、ユーゴスラビアから独立したクロアチアも出場。初出場ながら3 位の座を射止め、世界を驚かせた。そのクロアチアの快進撃の中心となったのが、かつてユーゴスラビア代表でストイコビッチのチームメイトとして活躍したズボニミール・ボバンだった。彼もまた、戦争の犠牲を被った選手の一人である。そのボバンが後年、こんな言葉を残している。

 「『サッカーは戦争だ』などという人は、本当の戦争を知らない人なのだ……」

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