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[中国の歴史7]〜インフォグラフィックで、もういちど読む山川世界史 Vol.15〜清の統一と中国支配、ヨーロッパとの接触〜
![](https://www.historist.jp/cms/wp-content/themes/historist/thumb.php?src=https://www.historist.jp/cms/wp-content/uploads/2023/02/infographic-wordhistory-15-title-thumb-2001x1500-10114.png&w=640)
皇帝のワントップ体制を確立した明も、様々な内憂外患によって弱まり、最後は反乱によって滅びました。
その時に勢力を伸ばした北方の女真族が中国を抑えて君臨します。
ヨーロッパとも様々な面で関係し合った中国最後の王朝、清の繁栄はどのようにして築かれたのでしょうか。
インフォグラフィックで「中華帝国の繁栄(後編)」〜『新 もういちど読む山川世界史』より〜
清の統一
多くの部族にわかれ,
明の間接統治をうけていたが,
17世紀初め女真を統一し,
後金国をたてた(1616年)。
つぎのホンタイジ
(太宗〈位1626~43〉)は
内モンゴルを併合し,
1636年に国号を清
(1616~1912年)と改めた。
![infographic-wordhistory-15-4.png](/articles/upload_images/infographic-wordhistory-15-4.png)
モンゴル・漢の3民族からなる
複合民族国家が成立した。
北京に都を移し中国の王朝となった。
反乱(三藩の乱,1673~81年)が
おこった。
ついで台湾で抵抗を続けていた
鄭氏もほろぼした(1683年)。
〈位1661~1722〉の代に
清の中国支配が確立し,
雍正〈位1722~35〉
・乾隆〈位1735~95〉の
時代にかけて全盛期をむかえた。
ネルチンスク条約を結んで,
アムール川(黒竜江)流域を
確保したのをはじめとして,
その領土をおおいに広げた。
東北・台湾を直轄領とし,
内外モンゴル・青海・チベット・新疆を
藩部として間接統治し,
朝鮮・ベトナム・タイ(シャム)
・ミャンマー(ビルマ)を
属国とした。
清の中国支配
西方の文明に接することも
なかったため,
中国支配にあたって
漢人の官僚・知識階級の
協力を必要とした。
統轄する理藩院など
独自のものもできたが,
ほぼ明代のものをうけつぎ,
漢人をも官僚に用いた。
征服者の威信を強く示した。
軍事組織に編制され優遇されたが,
漢化はさけられなかった。
財政も豊かになった。
ヨーロッパとの接触
ポルトガル人は16世紀初め
中国に到達し,
マカオに居住権をえて
中国貿易を開始した。
![infographic-wordhistory-15-19.png](/articles/upload_images/infographic-wordhistory-15-19.png)
オランダ人・イギリス人も
中国貿易に加わった。
アジアでは植民地と
なったところもあるが,
日本・朝鮮などと同じく,
ヨーロッパ人によって
政治や社会が
ゆりうごかされることはなかった。
産業を刺激し,
経済的繁栄がもたらされていた。
多数のカトリックの
宣教師が布教のため
中国に渡来したが,
フェルビースト,
カスティリオーネら
イエズス会の活躍がめざましかった。
中国文化に大きな影響をあたえた。
中国の情報が西洋に伝えられ,
当時の政治や文化に影響を与えた。
【コラム】中国文化のヨーロッパへの影響
康煕・乾隆時代といわれる18世紀の中国の繁栄は,ヨーロッパ宣教師に驚異の目でみられ,彼らは中国の状況や文化の紹介につとめた。
朱子学の理論的学説は,宗教の神秘主義からのがれようとしていたヨーロッパの哲学者に歓迎され,ドイツのライプニッツの哲学に影響をあたえ,フランスの啓蒙思想家ヴォルテールに高く評価された。
また当時の中国の完備した官僚制度にも関心がはらわれ,科挙の制度は合理的な官吏登用法と考えられ,のちその影響で高等文官試験制度がはじめられた。
ロココ式芸術や造園術にも中国様式の影響がみられる。
関連用語
女真(じょしん)
ジュルチン(Jurchin)の音訳。女直(じょちょく)とも記す。10世紀以来東北アジアに現れる民族名。もと渤海(ぼっかい)の遺民であったが,遼に滅ぼされたのち,生(せい)女真の完顔(ワンヤン)部の阿骨打(アグダ)が1115年統一して金国を建て,やがて遼,北宋を滅ぼした。…続きを読む
ヌルハチ
Nurhaci 弩爾哈斉または奴児哈赤 1559~1626(在位1616~26) 清朝の創始者,廟号は太祖。明代建州女直(けんしゅうじょちょく)の一首長の出。17世紀初め,建州女直を統一して,ヘトアラ(興京老城)に都城を築いた。…続きを読む
後金(こうきん)
Houjin 清朝建国時の国号。女直(じょちょく)(真)族を統一したヌルハチは,1616年推されてハン位につき,国号をアイシン(Aisin)すなわち金と称したことによる。…続きを読む
ホンタイジ
Hong Taiji 皇太極 1592~1643(在位1626~43) 清朝の第2代皇帝,廟号は太宗。ヌルハチの第8子。群臣に推され諸兄を越えてハン位につく。…続きを読む
清(しん)
Qing 1616~1912 中国の最後の王朝。満洲人が支配し,12代297年続いた。第1代の太祖ヌルハチは,南満洲の建州女直(じょちょく)の出身で,満洲族を統一し,1616年即位して後金(こうきん)国と号した。…続きを読む
明(みん)
Ming 1368~1644 モンゴル民族の元朝を漠北に退け,中国を統一した漢民族の王朝。17代277年継続。始祖は朱元璋(しゅげんしょう)すなわち太祖洪武帝。…続きを読む
李自成(りじせい)
Li Zicheng 1606~45 明末の反乱の首領。陝西(せんせい)省米脂(べいし)の人。貧農の子で,駅卒(駅に配置された従吏)の出身。1628年陝西地方に発生した大飢饉によって起こった暴動は,各地の流民を吸収して大規模な反乱に発展していった。…続きを読む
呉三桂(ごさんけい)
Wu Sangui 1612~78 明末清初の武将。遼東の人。初め明の総兵官であったが,明が滅ぶと清に降り,清軍を山海関から北京に導き,平西王に封じられた。…続きを読む
三藩の乱(さんぱんのらん)
清初の反乱。清は中国を平定するのに漢人の武将をよく利用したが,なかでも呉三桂(ごさんけい),尚可喜(しょうかき),耿継茂(こうけいも)(その子精忠)は王爵を与えられて雲南,広東,福建に駐し,三藩といわれた。・・・続きを読む
鄭氏台湾(ていしたいわん)
明朝の遺臣鄭成功(ていせいこう)が台湾に樹立した政権。成功は明朝滅亡後,南明(なんみん)政権に加わった功績により朱姓を賜り,反清活動を続けた。清朝の遷界令(せんかいれい)による沿岸封鎖を受けると,1661年オランダ人を駆逐して台湾を根拠地とした。…続きを読む
乾隆帝(けんりゅうてい)
Qianlongdi 1711~99(在位1735~95) 清の第6代皇帝。名は弘暦,廟号は高宗,乾隆は年号。60年にわたる治世は,康熙(こうき)帝,雍正(ようせい)帝のあとを受けて清の全盛期にあたり,内治外征に輝かしい成果をあげた。…続きを読む
ネルチンスク条約(ネルチンスクじょうやく)
Nerchinsk 尼布楚 1689年ロシアと清国の間に締結された対等の条約。清がヨーロッパ諸国と結んだ最初の条約で,清は康熙(こうき)帝,ロシアはピョートル大帝の治世にあたる。…続きを読む
軍機処(ぐんきしょ)
清代の軍事行政上の最高機関。雍正(ようせい)年間(1723~35年)に軍機の処理を目的として臨時に設置され,ついで正式の機関となった。…続きを読む
理藩院(りはんいん)
清代に設置された藩部の管理事務機関。太宗(ホンタイジ)の内モンゴル平定時に創設。のち藩部の増加により管轄範囲が拡大した。長官を尚書といい満洲人があてられた。…続きを読む
宋学(そうがく)
宋代に成立した思弁的な宇宙論哲学,またその実践倫理。源流は唐の韓愈(かんゆ)以来の儒・仏・道3教の調和,儒教的人倫強化の思潮にあり,宋学の先駆は名節と家族道徳を重んじた范仲淹(はんちゅうえん)である。…続きを読む
辮髪(べんぱつ)
薙髪(ていはつ)ともいう。頭髪を剃りあげ後頭部など一部を残して長くする北方民族の風習。…続きを読む
文字の獄(もんじのごく)
秦漢以来の中国諸王朝にみられる思想統制を反映した筆禍事件。なかでも異民族王朝であった清朝の筆禍事件が史上名高く,特に康熙(こうき)帝,雍正(ようせい)帝,乾隆(けんりゅう)帝の3代にわたる盛時に最も激しさを加えた。…続きを読む
禁書(きんしょ)
中国諸王朝で支配維持,思想統制などのため行った書物の刊行,所蔵の禁止策および対象となった書物をいう。古くは始皇帝の焚書(ふんしょ)がある。…続きを読む
イエズス会(イエズスかい)
カトリックの修道会。ジェズイット教団,ヤソ会ともいう。1534年イグナシオ・デ・ロヨラとその同志により設立され,教皇パウルス3世の認可を受け(40年),数年後ロヨラの著『霊操』にもとづく会憲ができた。…続きを読む
典礼問題(てんれいもんだい)
中国に布教するカトリック諸会派間の,教習慣と中国の礼俗をどの点まで妥協させうるかということに関する論争。イエズス会は,信徒に対して孔子の崇拝や祖先の祭祀を禁止せず,また中国人がおかしく思うような儀式,例えば洗礼の際に司祭が女性の膚に塗油することは行わなかった。…続きを読む
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