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4コマで長宗我部元親〜すぐわかる戦国武将シリーズ〜

土佐を本拠地に、四国のほぼ全域に勢力を誇った長宗我部元親。しかし、長宗我部家は元親の次の代で滅亡しました。刻々と変化していく情勢とどう向き合うのか?長宗我部元親の人生を4コマで振り返ります。

4コマで長宗我部元親

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長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)

生没 1538~99.5.19 織豊期の武将。土佐国岡豊(おこう)城主国親の長男。土佐を統一し,1585年(天正13)春伊予国の河野通直を破り四国平定をほぼ終えた。しかし,同年豊臣秀吉の四国攻めで降伏し,土佐一国を与えられ,
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長宗我部氏(ちょうそかべし)

長曾我部とも。中世土佐国の豪族・戦国大名。秦河勝(はたのかわかつ)の子孫とも,蘇我氏の部民の出ともいう。鎌倉初期,能俊(よしとし)が長岡郡宗部(そがべ)郷(現,高知県南国市)に住み,子孫が地名から長宗我部氏を称したという。南北朝期には北朝方として活躍。
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土佐国(とさのくに)

土左国・都佐国とも。南海道の国。現在の高知県。「延喜式」の等級は中国。「和名抄」では安芸・香美(かがみ)・長岡・土佐・吾川(あがわ)・高崗・幡多(はた)の7郡からなる。国府・国分寺は長岡郡(現,南国市)におかれた。
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阿波国(あわのくに)

粟国とも。南海道の国。現在の徳島県。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では板野・阿波・美馬(みま)・三好・麻殖(おえ)・名方東(なかたひがし)(名東)・名方西(名西)・勝浦(かつら)・那賀の9郡からなる。国府・国分寺は名東郡(現,徳島市),国分尼寺は名西郡(現,石井町)におかれた。
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豊臣秀吉(とよとみひでよし):日本史小辞典

生没 1537.2.6~98.8.18 織豊期の天下を統一した武将。尾張国愛智郡中村生れ。百姓弥右衛門の子。母はなか(天瑞院)。尾張を出,松下之綱に仕えた後,織田信長に仕える。
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豊臣秀吉(とよとみひでよし):世界史小辞典

1537~98 日本の安土桃山時代の武将。尾張国中村の人。織田信長に仕え,頭角を現す。本能寺の変に接し,明智光秀を討ち,続いて柴田勝家を破って信長の後継者となる。
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柴田勝家(しばたかついえ)

生没 ?~1583.4.24 織豊期の武将。織田信長の老臣で,近江・北陸侵攻に戦功をあげ,1575年(天正3)北庄(きたのしょう)(現,福井市)城主となる。越前国支配を許され,府中三人衆の前田利家・佐々成政・不破光治が目付として入封し,金森長近も指揮下に加わった。
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賤ケ岳の戦(しずがたけのたたかい)

1583年(天正11)4月,近江国賤ケ岳(滋賀県長浜市)付近での羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家の合戦。3月に両軍は北近江で対陣したが,岐阜で挙兵した織田信孝を討つため,4月16日,秀吉は大垣城に入った。その間隙をついて勝家が羽柴軍を襲い,
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小牧・長久手の戦(こまき・ながくてのたたかい)

1584年(天正12)尾張国小牧・長久手(愛知県小牧市・長久手市)を中心にくり広げられた豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄の連合軍の合戦。賤ケ岳(しずがたけ)の戦ののち秀吉と信雄の対立が顕然化し,信雄は家康と同盟を結んで対抗して3月に戦闘状態となる。
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九州攻め(きゅうしゅうぜめ)

1587年(天正15)豊臣秀吉が島津氏を破り,九州を平定した戦。日向国耳川の戦で,島津氏に圧迫された大友氏に救援を依頼された秀吉は,島津氏に講和をすすめたが不調に終わった。島津氏は86年12月12日,豊後国戸次(へつぎ)川の戦で勝利してほぼ豊後全土を制圧。
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小田原攻め(おだわらぜめ)

1590年(天正18)豊臣秀吉が関東の後北条氏を滅ぼして全国統一をはたした戦。秀吉に服従していた真田昌幸と後北条氏の上野国沼田領をめぐる争論をきっかけに,秀吉はかねてからの上洛要求に応じない後北条氏討伐を決意。
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文禄の役(ぶんろくのえき)

1592年(文禄元)4月,豊臣秀吉が明征服をめざして朝鮮に侵略した戦争(第1次朝鮮侵略)。朝鮮側では壬辰(じんしん)の倭乱とよぶ。これより先,秀吉は東アジア征服構想をたて,対馬の宗氏を通じて朝鮮に服属と明への先導を命じた。
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慶長の役(けいちょうのえき)

1597年(慶長2)2月~98年11月の豊臣秀吉の第2次朝鮮侵略。朝鮮側では丁酉(ていゆう)の倭乱とよぶ。秀吉は日明講和交渉で,明皇帝の皇女を日本の天皇の后にすること,日明間の勘合を復活し官船・商船を往来させること,朝鮮南4道の日本割譲など和議条件7カ条を提示したがいれられず,
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壬辰・丁酉の倭乱(じんしん・ていゆうのわらん):世界史小辞典

豊臣秀吉による朝鮮侵攻(1592~93年,97~98年)に対する朝鮮側の呼称。日本では文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役という。秀吉は明征服の野望を抱き,朝鮮に同調を求めたが,朝鮮側がこれを拒否,壬辰の年(1592年)に15万の大軍で朝鮮に攻め入った。
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長宗我部元親百箇条

「長宗我部氏掟書」とも。土佐国の戦国大名長宗我部氏が制定した法度(はっと)。元親・盛親父子が中心となり制定したもので,伝本には大別して文禄5年(1596)11月15日付と慶長2年(1597)3月24日付のものがあり,1597年6月の朝鮮出陣を念頭に制定されたと考えられている。
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サン・フェリペ号事件

1596年(慶長元)スペイン船サン・フェリペ号が土佐国に漂着した事件。同船は同年7月フィリピンのルソンからノビスパン(メキシコ)へ向かったが,途中,暴風雨のため長宗我部(ちょうそかべ)氏領の土佐国浦戸に入港。
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高知藩

土佐藩とも。土佐国高知(現,高知市)を城地とする外様大藩。関ケ原の戦後改易された長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)にかわり,1601年(慶長6)山内一豊(かずとよ)が遠江国掛川から土佐国浦戸に入封。
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関ケ原の戦(せきがはらのたたかい)

1600年(慶長5)9月15日,美濃国関ケ原(現,岐阜県関ケ原町)でおきた豊臣政権の主導権を争う戦。秀吉没後の豊臣政権は,五大老・五奉行による政務代行体制をとったが,しだいに五大老筆頭の徳川家康が政務を掌握した。
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徳川家康(とくがわいえやす)

生没 1542.12.26~1616.4.17 江戸幕府初代将軍(在職1603.2.12~05.4.16)。三河国岡崎城主松平広忠の長男。母は同刈谷城主水野忠政の女(於大(おだい)の方)。岡崎生れ。幼名竹千代,通称次郎三郎,諱は元信・元康・家康と改称。法号安国院。
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大坂の陣(おおさかのじん)

徳川氏が豊臣氏を滅ぼした戦。1614年(慶長19)冬と15年(元和元)夏の2度にわたる。関ケ原の戦ののち,徳川家康にとって豊臣氏排除は幕府権力の安定をはかるうえで不可避の課題であった。
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